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短編「ホシラン」

この小説は7,365文字です。

 空が茜色から群青色へと移りゆく。やがて地上の空気までも空の色に染まった。
 アンナはいつものようにテラスに誰も残っていないことを確認すると、談話室のガラス戸を施錠した。

「夜がやってくるわねぇ」
 背後からの声。振り向かなくても誰なのかすぐにわかった。
「そうですね。月子さん」
 背を向けたまま返事をする。ガラス戸の調光板を操作してブラインドをかけていると、月子が感情の失せた声で呟いた。
「偽物の夜空でつくった、偽物の夜ね」
「私にとってはこれが本物の夜空だし、本物の夜ですよ」
 アンナは振り向き、月子の車椅子の脇に膝をついた。月子の目は、透過性を落としてブラインドされたガラス戸の、ずっと向こうを見ている。きっと偽物の夜空の先の、本物の夜空を見ている。
「アンナちゃんの世代は人工の夜しか知らないのねぇ。昔は地球が自転していてね、太陽に向いている面が絶えず移動していたのよ」
「それが止まっちゃったから昼の面と夜の面が固定されたんですよね。学校で習いました」
 小学生でも知っていることだ。それでも月子は夜が訪れるたびにアンナに聞かせる。アンナの返事がいつも同じでも気にしている様子はない。話したことを覚えていないのか、単なる日課なのか判然としない。
「もうすぐ夕食ですからね。月子さん、どうします? 一旦、お部屋にもどります?」
「いいえ。ここにいるわ」
「じゃあ、みなさんと一緒にニュースでも観ますか?」
 施設の入居者たちは、夕食の準備が整うのを待ちながら自室や談話室で思い思いの時間を過ごす。大半の人はこの談話室の隅に集まり、壁際に設置された空中投影ディスプレイホログラフィーを眺めている。
 月子はちらりとその集団に目をやり、ゆっくり首を横に振った。
「このままでいいわ」
 車椅子は音声で操作できるし、アンナが付き添う必要はない。
「じゃあ、夕食の時に呼びにきますね」
 去り際に声をかけたが、反応はなかった。月子の心は遠い夜空に向かっている。

 アンナは談話室の中をゆっくりと歩き回る。ひとりひとりの様子に変化がないか見ていく。落ちていたショールを見つけて拾い上げ、軽くはたいてからおしゃべりに夢中になっている女性の肩に掛けた。
「あら。落としていたのね。アンナちゃん、ありがとう」
「どういたしまして」
 誰も見ていないホログラフィーの映像を切ろうとして、アンナの目はそこで止まった。
 3Dホログラムのニュースキャスターが、高齢者施設の認可基準改正について語っている。徐々に進んでいたアンドロイド職員の導入を徹底させるというものだ。この改正案が通れば、人の職員は管理者のみで、ほかはすべてアンドロイドを使用することになる。
 いまや介護施設や医療機関もオートケアの時代だ。これも働き方改革の一環らしい。いずれ人は誰も労働しなくて済む仕組みをつくるのだという。働くのが嫌じゃない人にとっては余計なお世話だよなあ、とアンナは思う。
 アンナは高齢者施設『まほろば』の介護職員としての仕事が好きだった。働き方改革では、誰もが好きなことをして過ごせる毎日を目指しているそうだが、アンナにとってはこの仕事こそが「好きなこと」だった。趣味や娯楽の時間を与えるようなことを言って、アンナのそれを取り上げようとしている。
 アンナにとって幸いなことに、『まほろば』はいまだにアンドロイド職員を一体も導入していない。べつに古き良き高齢者施設を謳っているわけではない。単に運営も設備も時代遅れの施設なのだ。その遅れ具合といったら、居室のドアも自動化されていないのだから遺跡レベルといえるだろう。
 キャスターの姿が萎むように消える。間を置かずして、夜空の映像が平面投影された。次のコンテンツが始まったらしい。深みのある男声でナレーションが流れる。

〈今回は地球の裏側をご案内しましょう。常に闇に閉ざされたところだと思われがちですが、そうではありません。人工的につくられた夜とは違い、月や星の明かりがあります。それは日光のようなまばゆさはありませんが、幻想的な美しさを見せてくれます〉

 いつのまに来たのか、月子が最前列に陣取っていた。ほかの人たちは集まっているだけで映し出されるものを見ていない。彼らにとってホログラフィーは情報源や娯楽などではなく、ただの集合場所の目印でしかない。けれども月子は違った。身を乗り出して壁の手前に映し出された満点の星空を眺めている。
 アンナは先ほどかけたばかりのブラインドに目をやった。電子調光機能によりガラスの透過性を落とすタイプのブラインドだ。完全に不透明になったガラスを見つめても外の様子をうかがうことはできない。ただその先にある風景を想像するだけ。アンナの脳裏に浮かぶのはただの暗闇だった。それはきっと、月子が見ていたものとは違う夜空だ。
 人工の夜空に星はない。真っ暗な空が広がるだけだ。かつての夜空には月や星といった天体が太陽光の反射で光って見えたらしい。そのくらいの知識はある。けれども実際に見たことはない。アンナだけではなく、親世代も含め、ほとんどの人がそうであるはずだ。本物の夜を知るのは、月子たちが最後の世代だ。
 夜の地域は生存が難しいほどの冷却地帯だという。立ち入り禁止区域に指定されているわけでもないし、まれに踏破を目指す探検家はいるものの、身の危険がある辺境の地へわざわざ赴く人などまずいない。宇宙の果てや深海の底のように、いつになっても人類の到達を許されない場所。
「俊明さん……」
 月子の吐息のような呟きは、周囲の歓談するざわめきに紛れ、アンナの耳にしか届かない。月子にしても誰かに伝える気などありはしないのだろう。ただ思わずこぼれ落ちたに違いない。
 毎日月子の話を聞いているアンナには、俊明という名は耳慣れている。若い頃に夜の地域へ旅立った、月子の恋人の名だ。
 俊明は、代々続く花農家の跡継ぎだったそうだ。だった、というのは隠居したからではない。行方知れずなのだ。いや、きっともうとっくに……。
 いつか帰ってくると信じているのは月子だけだ。俊明の親族でさえ待ってはいないだろう。
 なにしろ彼は遙か昔に地球の裏側へ行ったのだから。どこの国も手をつけようとしない夜の地へ。

 昼の地はドームで覆われている。海上はいまだ建設中のところもあるが、ほとんどの地上は数年前にドームが完成した。日本は世界でも早い方だったという。国土が狭いことが幸いした。行政区画ごとの小さめのドームにしたのも早さの秘訣だったようだ。隣接するドームとの往来も問題ない。アジア諸国を援助する余力まであった。
 ドームが建設されたのは地軸が固定されて温暖化が急速に進んだためだ。巨大な室内を作り上げたのだ。一時は解決に向かったかと思われた。けれどもそれだけでは不十分だった。昼に受けた太陽熱を冷却する夜がないと、人類を初めとする動物の身体的負荷が大きすぎるだけでなく、植物や作物が生育しないのだ。地球環境の急激な変化に動植物の進化は追いつかなかった。すべての生物が昼と夜を必要とした。

〈みなさんはプラネタリウムをご覧になったことがあるでしょう。義務教育ではかつての地球の姿――日が昇り沈んでいく、昼と夜のある地球の空を学ぶことになっています。さあ、思い出してください。あの夜空を。ここにはあるのです。我々が失った、あの夜空が〉

 寒冷地仕様のドローンでも使っているのだろうか、まるで飛行しているかのようだ。枯れ果てた景色がぐんぐん迫り、後方へと去っていく。
 二十一世紀の遺跡が意外なほどに形を保っていることにアンナは感心したが、月子にとっては意外なことではないのか、それとも気にもならないのか、馴染みの場所を眺めるようにしている。車椅子は音声操作もできるのに、なぜかコントローラーを必死に操作して、建物の影をのぞき込むような動作を繰り返す。なにもいるはずなどないのに。
 動物も植物も生きられない。光の射さない地中奥深くや深海に棲む生物がいるように、夜しかない世界で生きる生物が生まれているはずだという説もあるが、これほどの急激な環境変化に進化が追いついた生物などいるわけがないというのが通説だ。

〈未踏の地には数々の伝説や噂が生まれます。未知なるものは神秘を感じさせるのでしょう。夜の地で暮らしている人がまだいるかもしれない。昼の地では出会えなくなった生き物がいるかもしれない。夜しか咲かない花が咲いているかもしれない。今夜はそんな噂を確かめてみましょう〉

 オルゴールの曲が流れる。ホログラフィーからではない。館内放送だ。食事二十分前の合図だった。予鈴にしては早すぎる気もするが、居室にいる高齢者が食堂まで移動して来るには必要な時間だ。
 娯楽室の人たちがばらばらと食堂に向かう。ホログラフィーの付近にいた人も減っていく。
 月子はホログラフィーに見入っていて、動く気配がない。そんなに急いで食堂に行くこともないだろうと、アンナも月子とともに夜の地を眺める。
 夜の地は真っ暗闇ではなかった。無人カメラに装備されたライトが照らしてはいるが、それだけではない薄明かりがある。太陽の光は月や星々に反射して、地球の裏側まで照らしているのだ。
 本物の夜空は美しかった。
 月子が人工の夜空を偽物と呼ぶのももっともだと感じた。
 その月子を見ると、微動だにせず見入っている。
 いつしか、談話室は人がいなくなっていて、残るは月子とアンナだけだった。ざわめきも人と共に去り、聞こえるのは広い空間の片隅で語り続ける音声だけ。

〈みなさんはスズランという花をご存じでしょう。そうです、あの、小さな鈴を下げたようなかわいらしい花です。では、ホシランと聞いてどんな花か思い浮かぶ人はいるでしょうか〉

「えっ」
 アンナは思わず声をあげ、次の瞬間、月子を見た。
 月子の口は「あ」の形に開いて、口元に届く手前で両手が浮いていた。
 ホシラン。星の蘭。
 それは、いつも月子が口にする花の名だった。俊明が月子に贈ると約束した花の名だった。
 アンナはその花を見たことがない。アンナが生まれるずっと前に、花屋からは消えた。夜の花だからだ。人工の夜では咲かない花だからだ。

〈ホシランはスズランに似ていますが、鈴のような花の代わりに、小さな星の形をした花をつけています〉

 浮かび上がった3Dホログラムは、一見スズランと変わらなかった。拡大表示されていくと、その花は色こそ白だが、たしかに鈴とは異なる形をしていることがわかった。線香花火の火花のようだった。針状の花びらが火花のように広がっている。いや、ちがう。星だ。星々が咲いていた。
「ホシラン! ホシランはまだあったのね! 俊明さん。俊明さんがホシランを持って帰ってくるわ」
 伸ばした月子の手が光の進路を遮って、3Dホログラムが乱れる。
「月子さん。落ち着いて」
「ああ、そうよね。このホシランはホログラムね。わかっているわ、本物じゃないって。本物は俊明さんが持ってくるの」
 そう言うと、窓際へと車椅子を進め、ガラス戸を細く開いた。防犯や安全上の問題もあり、職員以外が出入口の開閉をするのは禁止されている。けれども、帰るはずのない恋人を今なお待ち続ける月子の行動を咎めるのも気の毒な気がして、アンナは見守るに留めた。
 スズランの花言葉は『幸福の再来』だが、似て非なるホシランの花言葉はなんだろう。やはり似て非なる花言葉なのだろうか。少なくとも幸福が再来することはない。ホシランがあろうがなかろうが、俊明が無事でいるはずがないのだから。

 月子と俊明はなさぬ仲だった。俊明は、月子の夫の従弟で、盆と正月に親戚一同が会する場だけが二人の接点だった。
 ある年の集まりの際、一向に子を授からない月子が座に居心地の悪さを感じているのを察して俊明が外へ連れ出したのが親しくなるきっかけだった。月子の夫は飲み過ぎて部屋の隅で居眠りをしていたため、子の話は妻である月子ばかりが問われるはめになっていた。悪意のない期待に満ちた問いかけに笑顔で受け流すことに疲れ始めた頃、俊明が月子を温室へと誘ったのだ。
「そうだ。月子さんはホシランを見たことある?」
「いいえ。お花屋さんに並んでいるのは見たことあるけど、咲いているのは見たことがないわ。あのお花って夜にしか咲かないんでしょう?」
 月子が正直に答えると、その場にいた大人たちは揃って「なんだ、見たことがないのか」と優越感に浸った声を上げた。都会に出たのは月子の夫くらいで、地元に残ったほかの親戚は花農家を営んでいた。花に詳しいことが誇りだった。
「ホシランの花を見たことがないとはもったいない」と口々に言う。
 俊明は「やっぱりな」と頷き、立ち上がった。
「日も落ちたし、ちょうどいい。月子さん、ホシランの咲くところを見てみないかい?」
「そりゃいいや。月子さん、こいつはいまだに嫁の来手もないが、ホシランを育てる腕は立派なもんだからな」
「伯父さん、余計なことは言わなくていいよ。さ、月子さん、僕のホシランを見てよ」
 あれほど話題の中心に置かれていたはずなのに、いともあっさりと月子は送り出された。
 月子は、俊明の振る舞いに感心せずにいられなかった。年長者の自尊心をくすぐりつつ月子を解放するとは。

 何度も何度も同じ話を繰り返す月子だったが、その後ホシランの温室でなにがあったのかは語ったことがない。
 忘れているわけではないと思う。言葉にできないほど清く尊いできごとだったのだろうとアンナは想像する。
 きっと俊明はもういない。
 月子の話によれば、俊明が夜の地へと向かって数十年の時が経つ。冒険家でさえもそれほどの長期にわたって生きながらえた者はいないはずだ。
 そして、もっとうがった見方をするならば、俊明との思い出が本物かどうかも疑わしい。月子が騙っているというのではない。本人の意図しないところで、月子の記憶が願望から作られたものである可能性もあるということだ。
 月子はもはや夫の名も覚えていない。今日という日がいつなのかもはっきりしないはずだ。その中で俊明の記憶だけが鮮やかに残っているのには違和感がある。
 月子が語ることを正面切って否定はしない。アンナはここの職員だから、そのような教育を受けている。事実を追求することに意味はない。平穏に日々を過ごしてもらえたらと心から願う。それに、たとえ月子の心の中だけのできごとであったとしても、結ばれることのなかった恋人たちの再会が叶えばいいとさえ思う。

〈……驚くべきことに〉

 ふいにナレーションが耳に届き、アンナは視線を月子からホログラフィーに戻した。

〈まだ地球が自転していた時代、ホシランは街の花屋に並ぶ、特に珍しくもない花でした。ただし花を付けるのは夜の屋外と決まっています。花の形と相まって、降り注いだ星が花になったとの伝説も生まれました。伝説であるにもかかわらず、ホシランは星が見えることのない人工の夜では花を咲かせませんでした。その花をなぜ今また目にすることができたのか? それは、あるひとりの男性の熱意にほかなりません〉

 アンナは思わず両手で口元を覆った。手のひらに当たる息が早い。
 まさか。そんなはずはない。ありえない。
 きっと誰かほかの人だ。探検家とか研究者とか。一介の花農家の跡取りがそんなことできるわけ——

〈その男性はひとりの女性にホシランを贈るためだけに、長い年月をかけて夜の地を探索し続けたのです〉

「月子さんっ!」
 アンナは叫んでいた。
 しかし、先ほどまで窓際にあった月子の姿は消えていた。テラスへ続くガラス戸が完全に開いている。安全上の理由から、夜にテラスに出ることは禁じられている。とはいえ、テラスの周囲は低い柵で囲われているだけだが、高齢者が乗り越えられるものではない。ましてや車椅子の月子がテラスに出たところで考えられる危険は転倒くらいだ。転倒も重大な事故ではあるが、アンナはホログラフィーの前から離れられなかった。この場に月子がいないからこそ、自分が見ておかなければならないと思った。

〈その方は——〉

 総白髪だが背筋の伸びた後ろ姿が浮かび上がる。3Dホログラムの男性がゆっくりと時計回りに回転する。その顔が正面を向いた瞬間、前面に氏名が浮かび上がった。

「……と、俊明……さん?」

 ありえない。何十年も花を探し続けていたなんて。本物の夜空の下で。夜の地で生きていたなんて。
 ありえない。昨日の記憶さえ曖昧な月子の思い出が本物だったなんて。
 けれども月子の語る名と同姓同名の人物がホシランを発見するなどという偶然の方こそありえない。
 ならば。これは。この人は。

「月子さん!」

 今度こそアンナはテラスに向かって駆けだした。開かれたガラス戸から夜空の下に飛び出す。
 人工の夜空には星一つなく、ただ暗幕を引いたような真っ暗闇が広がっている。娯楽室の明かりが作る光の道の先に月子はいた。いつもと変わらず車椅子に座っている。こちらに背を向け、道に面した柵の間際まで寄っている。偽物の夜空を見上げながら、本物の夜空を見ているに違いない。

「月子さん。今、ホログラフィーでホシランが……俊明さんが……」
 語りかけながら正面に回り込む。逆光で月子の表情は見えない。アンナは腰を屈め、月子と視線を合わせようとして……息をのんだ。
 月子の手に、白く光る星があった。ホシランの花束だ。
「いつの間に」
 アンナは素早く体を起こすと、柵から身を乗り出して通りを見渡した。遠くに街灯が灯るだけで、人の姿はない。
 再度、月子の傍らに膝をつく。
「月子さん、それ……」
 顔を覗き込むと、月子は笑みを浮かべたまま眠っていた。きっと俊明の夢でも見ているのだろう。

 開け放したままの入り口から館内放送が漏れ聞こえてきた。

〈夕食の準備ができました。みなさん、食堂にお集まりください〉

 チャイム代わりの軽快な音楽を聞きながら、アンナは月子の車椅子の押手に手をかけた。
「……月子さん。お食事の時間ですよ」
 返事はない。
 アンナは真っ暗な夜空を見上げてから車椅子を押した。
 眠り続ける月子の腕の中には、本物の夜空があった。