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なつの感触 ver.2019

これは、フィクション版『あのこと暮らしたあの部屋は。』です。初めて発表したのが2002年、それから数度にわたる改稿を重ねました。今回は、手元に残る最古のバージョン、2009年版をもとに少しだけ手を加えています。

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 人差し指と親指で作ったフレームの中で、歌う真理子はほんとにきれいだ。彼女はわたしが見ていることやスケッチしていることなんか少しも気にならないみたいに、自由に体を曲げたり延ばしたり、息を吸ったり吐いたり、いろいろな声の出し方を繰り返したりする。その柔軟な筋肉の動き、真剣で楽し気な表情、飽きることない試行錯誤、それらを見ていると、鉛筆を動かすのなんかやめて、ただじっと、見つめていたくなる。

 フレームの中でふいに真理子は、くるりとわたしの方に向き直った。
「もうすっかり夏ね。可南ちゃん」
 真理子は眩しそうに外を見る。わたしもフレームを崩し、開け放したアルミサッシの戸越しに、向こうの庭を見る。
「そうだね。いい天気」

 この北の地の夏は、暑さがどこかすがすがしい。湿気ひとつないぱりっとした空気と、よく晴れた青い空と、輝く太陽とに彩られた夏。わたしは季節の中で夏がいちばんすきだ。庭の草木がいちばんきれいになり、緑濃く鮮やかに、ぴかぴかする。

 わたしと真理子はふたりで暮らしている。同じ大学の教育学部で、真理子が音楽科声楽専攻、わたしが美術科絵画専攻だ。家は築三十年のでかくてぼろい庭付き一軒家。大家さんはもうお孫さんもいる女の人で、昔住んでいたというこの家を、古いからと言って破格の家賃で貸してくれた。今はここから五分ほどのところにある娘さん夫婦のお宅で暮らしている。
 一緒に暮らすようになってから約半年。でも思えば、真理子と知り合ってからまだ一年くらいしか経っていないのだ。

 真理子と初めて出会ったのは、大学一年の夏の初め頃だった。出会いはあまりにも印象的で、その後真理子を知って彼女が普通の人だと分かってからも、ふとした瞬間に、あの、まるで歌から出てきた人を見たような感覚を思い出すことがある。
 その時、わたしは大学の実習室でひとり残ってデッサンをしていた。もう日暮れ時で、赤い西日が実習室に濃く差し込んでいた。構内はひどく静かで、誰もいないんだという雰囲気が建物全体から垂れ込めていた。

 ふいに、遠くから歌声が聞こえた。

   めえーめえー
   もりのこやぎー もりのこやぎー

 わたしの手は自然に止まった。声は遠くなのに不思議とくっきり聞こえる。空耳だろうか?いや、そんな筈はない。

 歌は次第に近づいてきた。

   こやぎはしれば こいしにあたる
   あたりゃあんよが あああいたい

 声は子どものようでいて妙に艶めかしく聞こえ、歌詞は童謡なのにどこかエロティックに聞こえた。教室の朱は刻一刻と濃さを増し、教室の中すべてを染め上げる。わたしは固まったように動けなかった。

   そこでこやぎはめえ―――――――――と――――

 歌が途切れた。開けたままだった実習室の戸の前に、ひとりの少女が立ち止まった。教室は今や濃密な朱の海で、朱が溢れるほど逆に沈む影のような薄暗い廊下に、小柄な姿が浮かんでいた。それが、真理子だった。わたしは一瞬、ここが大学だということを忘れた。

 真理子は軽く肩をすくめて舌を出し、
「ごめんなさい。邪魔しちゃいましたよね」
と笑った。その顔はふわりと白く、長い髪は柔らかそうな茶色で、開け放した戸の長方形に切り取られた姿は、まるでひとつの絵のようだった。
「……今の……こやぎの……」
 わたしは自分でも何を言うのか分からないままに、そう言っていた。真理子は、
「ああ、『めえめえ児山羊』っていう歌。きれいでしょう?」
と答えてまた笑った。そんな風に無邪気に笑う真理子と艶めかしい声で鳴くこやぎとが、頭の中で重なりひとつの幻影を作り、わたしは混乱した。

 その時の話をすると真理子は、
「やだあ、可南ちゃん、ロマンティック過剰。あれはただのはなうただったよー」
と言って笑う。けれどその時のことを思い出す時、わたしは、歌と、真理子と、あの朱の波に満たされた教室とを、分けて考えることができない。

 自分でも驚いたことに、わたしはその場で真理子に絵のモデルをしてくれないかと頼んでいた。普通ならしない。人見知りもするし、初対面の人にそんな申し込みをするほど神経も太くない。自分でも、何を考えていたのかさっぱり分からない。そしてもっと驚いたことに、真理子は簡単に引き受けてくれた。あっけないほど簡単に、笑顔を見せて。でも、今思うと、それはいかにも真理子らしい。

 こうして、スケッチブックをもって音楽科の練習ブースに通う日々が始まった。
 付き合い始めて知った真理子は、人懐こいたちで話好きだった。歌のこと、副科のピアノが面倒なこと、イタリア語はすきだけどドイツ語は嫌いだということ、ボイストレーニングおたくだということ。実際彼女の体はよく鍛えられていて、柔軟に動くしなやかな筋肉がうつくしかった。
 わたしはわたしで、なんでこんなにわたし喋ってるんだろと内心驚きながら、ルネサンス期と現代の絵画がすきだということ、クラスで一番描くのが遅くて嫌になること、そういえば小学生の頃徒競走はいつもビリだったということまで話し、真理子は声をあげて笑った。

 わたしたちは揃ってお金がなくて、どっちも似たくらい古くて安いアパートに住んでいた。うちに遊びに来た真理子が
「可南ちゃんがすごいマンションとかに住んでなくてよかった」
と笑ったほどだ。お互い、画材に楽譜、展覧会に演奏会と、お金が出ていくたびにぴいぴい言っていたくせに、それらを節約する気は全くなく、結果その他のことは切り詰めて切り詰めて生活していたけれど、その頃の思い出は不思議と楽しかったような気がする。

 二人でよくリサイクルショップへ行った。真理子は、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたハンガーの列から掘り出し物――カットソーだったりスカートだったりワンピースだったりした――を引っ張り出しては、
「ねえねえ可南ちゃん見て、これ百円だって」
と歓声をあげ、無造作に選んだシャツを腕に抱えているわたしを見ては、
「駄目よ、可南ちゃん。洋服は試着が肝心なのよ」
と叱ったりした。

 近所の神社へ出かけて百円だけ払っておみくじを引く、という遊びもよくした。わたしは大凶をひくのがとても得意で、いつもどんよりした気持ちになったものだけれども、真理子は
「結んでしまえばいいのよ」
と言って、わたしに代わってさっさと枝に結んでくれた。そういう真理子は大吉をひく名人だったけれど、そんな時彼女は
「大吉は凶に通じるの。喜んでちゃいけないのよ」
となぜか真面目な顔で言い、それもまたさっさと枝に結ぶのだった。

 実家からの仕送りは少なかったけれど、その分いろいろと物が送られてきた。彼女の家は食料雑貨店を営んでいてよく乾物や缶詰が届き、わたしの方では母方のおばあちゃんの家で作った野菜なんかが送られてきた。わたしたちはこれを『救援物資』と呼んで、ふたりで山分け(というほど多くはないけれど)したものだった。

 気付けばわたしたちはいつも一緒にいるようになっていた。
「可南ちゃん、一緒に住まない?」
と真理子が言ってきたのは、一年次が終わる頃だった。わたしは素直にうなずいた。それはなんだか当然の流れのような気がした。もちろん実際的な理由はあって、真理子はずっと引っ越したいと言っていたし――あの古アパートではピアノや歌は無理だった――、わたしとしてもふたりで住めば経済的に余裕が出るのでずっと楽になる。けれど、そんなことより何よりも、真理子と一緒にいるのは楽しかったのだ。
「なんかさ、うちに帰ると可南ちゃんがいるっていいよね」
 真理子はそう言って笑った。

 ことが決まると真理子は驚くべき早さで条件に合う物件を見つけ出した。それがこの、築三十年庭付き一軒家だ。研究室の先輩からの紹介だそうだ。安いこと。二人入居できること。大きな音を出しても構わないこと。ぼろいもふるいも関係なかったから、わたしたちにとっては理想的な住まいだった。
 この家では真理子は自由に声を出し自由に歌を歌う。その、体を動かす姿、声を出す姿、歌を歌う姿は、なぜだか、練習ブースの真理子より、ずっと生き生きしている。そう思うと、以前のスケッチはとても味気なく見えた。

 いつからかわたしは思うようになった。歌う真理子。それが描きたい。歌っている時に真理子の体からどこまでも広がっていくもの。それが描きたい。夏休みに油絵の自由課題が出された時、わたしは真理子の絵を描こうと決めた。そう決めたのは早かった。なのに絵は全然進んでいない。どうしてだろう、歌う真理子はあんなにうつくしいのに、スケッチブックに映すとすべてが色褪せる……。
 課題は七月から発表されている。今はもう八月。なのにカンバスは真っ白だ。

 真理子は夏休みでもレッスンに通っている。レッスンの日は、だいたいうちで体をほぐし声を出しておいて、先生のレッスンを受け、帰ってきてからおさらいをする。わたしは真理子の部屋でそれをスケッチする。
「歌ってないと体が鈍る。ほら、バレリーナが言うでしょう、一日練習をしないと自分に分かり、二日練習をしないと相手に分かり、三日練習をしないと観客に分かるって。そんな感じ」

 真理子は努力家だ。真理子は、将来奨学金を受けて留学し、プロになると心に決めている。わたしはどうなんだろう、漠然と先生になるんだろうな、と思うだけで、今分かっているのは、真理子の絵を描きたいと思っていることだけ。なのにそれすらも思うようにいかない。わたしには真理子が見える。真理子の歌が聞こえる。でも、だんだん分からなくなっていくような気がする。真理子はあんなに楽しそうに歌うのに。

 本当に、歌を歌っている時の真理子は楽しそうだった。あれだけレッスンで歌っているにもかかわらず、子どもが飽きることを知らないように、彼女はいつもはなうたを歌っていた。そんなときの歌は、勉強している歌曲やアリアなんかではなく、大抵が童謡だった。
「わたしね、童謡ってすき。メロディラインも歌詞も、単純なのにすごくきれい。単純だからきれいなのかな。そういう歌は、ごまかせない気がする。自分の声も、自分の内面も、そのまま出るような気がするの。ちょっと怖いね。可南ちゃん、童謡って知ってるほう?」
 わたしは真理子の歌う童謡が聞きたかったので、ううん、歌ってと答えた。
「じゃあ、ひとつ歌ってあげるね」
 ポピュラーだから知ってるかしら、と少し思案して、真理子は歌い出した。

    おーてーて つーないでー
    のーみーちーをーゆーけーばー
    みーんなー かーわあいー
    こーとりーにーなーってー
    うーたをうたーえば くーつーがーなるー
    はーれたみーそーらーに くーつーがーなるー

「二番もあるんだけど、知ってる?」
と真理子は訊いた。わたしは、ううん、と答えた。
「二番はね、跳ねて踊ってうさぎになるのよ」
 真理子は満足そうに付け加えた。覚えとく、とわたしは返事した。出会った時に真理子が歌っていた、めえめえ児山羊を思い出していた。

 久しぶりに学校に行って実習室を覗くと、同級生の男の子がカンバスに向かっていた。
「村上くん、順調だね」
「お、井上」
 彼は動かしていた手を止めて振り向いた。覗き込んだカンバスには、途中まで彩色されたお母さんと子どもの絵があった。
「母子像なんだ」
「うん、姉ちゃんと甥っ子」
「ふーん」
 本当の母子をモデルにするのは、嘘がなく誠実な気がして、ちょっといいと思った。

「井上は何描くの」
「うーん……。歌う人を描きたいんだけど、何かだんだんわからなくなって」
「何が?」
「歌とか。歌うこととか。何を描いたら歌う人を描いたことになるのかとか」

 思いがけなく、彼は笑った。
「それはさ、訊くんだよ。実際歌う人に。歌って何なのか、歌うことって何なのか、そういうことをさ。俺、訊いたよ、姉ちゃんに。そしたら滅茶苦茶言われたぜ。母親の大変さとか子育ての苦労とか。愚痴だよな」

 そういう彼の母子像は穏やかで安定感があり、愚痴だとか言ってみたって、彼の感じ取ったものが違うものだったであろうことは、すぐわかった。少しおかしかったけれど、彼のそういうところいいよなと思った。
 いい作品になりそうね、と言って実習室を出た。真理子は今日もレッスンだろう。夕ご飯においしいものを作ろう、と思った。

 その日は朝から晴天で、溢れる朝の日差しの中、庭では真理子が洗濯物を干していた。普通の洗濯物の他に、今日は大物を洗濯するのだと言って、わたしのものも合わせてシーツが二枚、バスタオルが四枚、それからバスマットや流しの前に敷くラグなんかもある。ぱんと張られた白いシーツが日に透けて、真理子のシルエットを映し出す。真理子の体は柔らかい。真理子の動きはきれいだ。無駄のない、滑らかなリズム。わたしは畳にべったりと座って、部屋からそれを見ている。

 干し物を終えて真理子が庭から部屋へ上がってきた。洗面所へバスケットを持って引っ込むと、はなうたが聞こえてくる。今日はレッスンのない日なのだ。
「ねえ、真理子さん。教えて」
 わたしは洗面所の真理子に声をかけた。
「えー、何をー?」
 のんびりした声が返ってくる。
「歌」
 真理子は部屋に戻ってきた。
「歌う真理子を絵に描きたいんだけどね、よく分からないの。歌って何。歌うってどういうこと」

 真理子はしばらくじっとわたしの顔を見て黙っていたが、やがて座ったままのわたしの腕を取って引っ張った。
「いいよ。やろう。教えてあげる」
 わたしはよく分からないまま立ち上がった。
「可南ちゃんは歌を聴いたことがあるでしょ。歌詞を読んだこともあるでしょ。楽譜を見たこともあるでしょ。でも、歌ったことはないと思う。ほんとに歌ったことはないと思う」
 真理子は真面目な目をしていた。
「わたしの知ってる歌はこれ。可南ちゃんがほんとに歌を描こうとするのなら、可南ちゃんにもそれを知って欲しい」
 真理子の歌に対する思いを垣間見たような気がして、わたしは自分がひどくいい加減な覚悟で歌を描こうとしていたような気持ちになった。
 けれど、真理子はわたしに向かって笑った。
「でも、歌ってとても楽しいものだから。楽しんでもらえればそれでいいの」

 真理子は、じゃあ始めるね、と言った。
「歌うことは筋肉の運動だよ。体全体が楽器になって、音楽が生まれる。可南ちゃんに楽器の気持ちを味わわせてあげる。いい、可南ちゃん」

 真理子はわたしの手を取って、わたしの体の前面に滑り込み、わたしのお腹に自分の背中をぴったりくっつけた。わたしの腕は真理子に導かれて彼女の胴体をぐるりと抱きかかえ、手の平は真理子の恥骨の上あたりを覆った。真理子は背中からわたしにすっぽりと包み込まれた。

 肩甲骨、背骨、肋骨、骨盤、恥骨……。
 真理子の骨格を初めて知った。これが真理子。体で感じる、これが真理子。
 抱擁だった。向かい合って抱き合うよりももっと確かに、相手の体の奥まで入り込んでいく。研ぎ澄まされた抱擁。
 真理子の匂いがする。
 柔らかな筋肉。真理子が呼吸するたびに、胸が軽く上下する。耳元で反響する息づかい。胸に響く鼓動。髪の毛、うなじ。わたしは感じる、背中に押し付けた胸で、体に回した腕で、下腹部を覆う手の平で。

「息を吸うことと息を吐くことが始まりだよ。わたしはひとつの袋。空気を満たして、また送り出す、柔らかく動く袋なの」

 真理子はゆっくりと深く息を吸った。真理子は弾力を持って膨らみ、わたしの腕の中は真理子で満ちた。真理子の筋肉は、柔らかく滑らかに動きながらわたしとひとつになろうとした。真理子の背面とわたしの前面が溶け合い、わたしは空気を満たす柔軟な袋の一部となった。

「吐くよ」

 真理子は長く静かに息を吐いた。真理子はわたしと一緒にゆっくりと収縮した。

「大きければ大きいほど、豊かな音を持つ楽器になれる。これからわたしの楽器を作るよ」

 真理子がスゥと音を立てて息を吸い込むと、わたしたちは拡がった。真理子の背中の上部は、接したわたしの胸と共に、両側に大きく開いた。ぴんと張られた共鳴体、わたしたたちの豊かな楽器。

「ね、拡がったでしょう」

 その声は、自分のもののように、いやそれ以上に、わたしの体の中で、渦を巻き、反響し、びりびりと鳴った。

「じゃあ、音を出すよ」

 いろんな音ね、と言って振り向いたその顔は、子どものように楽しそうだった。

 胸骨の上に手を当てて、と言って真理子は、わたしの手を鎖骨の真下に移動させた。彼女が出した音は、びりびりと響く強い低音で、彼女の胸全体が振動した。
 彼女はわたしの手を取って、体のあらゆるところへ移動させた。のど、鼻、額、首の後ろ側、頭頂部――。手はいろいろな音を感じた。真理子の体はよく振動し、わたしの体は共振した。彼女と同じ、振動で。彼女と同じ、肉体で。わたしたちはひとつの袋として、同じ空気を吸った。わたしたちはひとつの楽器となって、同じ音で鳴った。

「じゃあ、最後にドラマーティコ・ソプラノ!」

 彼女がことさら楽しそうに宣言した時、始めてからすでに一時間近い時間が経っていた。わたしたちはうっすら汗をかいていた。気温はゆっくり上昇し、庭の空気がゆらゆらしていた。
 わたしは自分の匂いを感じた。真理子の匂いを感じた。真理子のうなじのほつれ毛を見た。この柔らかい生き物を抱きしめる不思議を思った。

 一番しっかり抱きついててね、と彼女は言った。
「歌うってことを感じて欲しいの。わたしになって欲しいの」
 わたしは改めて真理子を抱きしめた。ぴったりと、また、わたしたちがひとつの楽器となるように。

「では、いきます」

 そう言って彼女は歌い出した。ひどく丁寧に、そっと壊れやすいものを扱うように、柔らかな高音部から始まったそれは、蝶々夫人のアリア『ある晴れた日に』だった。

 彼女は歌った。やさしい夢を見るようなたっぷりとした導入部、ふと、哀しげにそしてやさしく囁くような調子へと変わる中間部。
 真理子の体は驚くほど柔軟に、そして繊細に、動いた。ひどく気を配って出すひそやかな声から、体中に響く豊かな声まで、表現したい音楽を、体で作り出していた。

 電流が流れたように唐突に、わたしは感じた。真理子が歌を目指す思いを。
 真理子の中にある、ある衝動、表現への渇望。真理子は表現を可能とする楽器になるために、自分の体を確かめ、自分の響きを確かめ、自分の楽器へと近づいていく。そして到達するのだ。自分の歌。自分の音楽。今真理子が発しわたしが感じているもの、真理子の歌へ。

 ふいに感情が席を切ったように溢れ出し、歌は終末部へ入った。

 彼女は歌いこんだ。恋人を信じて待つ蝶々夫人の心を。どこまでも高まっていく感情を。そして、全身全霊を込めるような長い長い一声が、体中を満たし、部屋中を満たし、ふと途切れて、歌は終わった。

 わたしは一瞬、歌が終わったのが分からなかった。真理子の歌は、まだわたしの体中で鳴っていた。彼女の体から溢れ出る歌、自分はそれを抱きしめているのかそれとも抱きしめられ包まれているのか、よく分からなかった。体中がびりびりと振動した。
 わたしは歌を聴いたのではなかった。歌を体験したのだった。歌はわたしを揺るがした。もし許されるなら、わたしは歌ったのだだと言いたい。彼女を抱きしめて、彼女に包まれて、彼女と一緒にわたしも歌ったのだった。

 震えて、しばらく腕がほどけなかった。真理子がそっとほどいてくれた。
「この歌を歌うとね、すっごく哀しくなるの。蝶々さんのことを思うと、涙が出そうになる。でも、本当のところ、わたしが蝶々さんを表現しきれているのかどうか、よく分からない」
 わたしは何も言えなかった。
 真理子のことを、凄いと思った。
 
 わたしはスケッチをやめた。その代わり、ひとりで部屋で、あの、抱きしめた真理子の感触を何枚も何枚も絵にしようとしていた。うまくはいかなかった。柔らかさ、一体感、包まれ、感じた振動、共に体験した、歌。その感覚が、絵にならない。真理子。抱擁。思いは最初に戻る。ぐるぐる、途切れない輪。

「最近可南子さんはわたしを無視している」
 夕ご飯の時、突然真理子が言った。見ればお茶碗を左手の丸みにのせたまま、唇を尖らせている。拗ねている時の、真理子の癖だ。
「してないよ」
「してる」
「してない」
「だってさ、だってさ」
 真理子は箸でお茶碗の中身を突く。わたしを見ない。
「最近、スケッチしないじゃない」
 ふっと自分の中で何かがほぐれた。口元が緩みそうになった。
「なんかね、うまくいかないんだよ。どうやって描いたらいいか試行錯誤してるの」
「そう……」
 真理子はおとなしくご飯を食べた。

 夕食後、縁側に座って薄明るい夜の庭を眺めた。
 夏の夜はすきだ。空気が涼しくて、虫なんかが鳴いて、静かなのに、それぞれの家ではご飯を食べたり茶碗を洗ったり、TVを見たりしているような生活の気配がする。
 はるはあけぼの、なつはよる。
 こんなふうに、歌はナントカ、真理子はナントカ、と言い切ってしまえればいいのに。あの時分かったと思ったのに、いざ掴もうとするとするりと逃げてぼやけてしまう。ため息が出る。

 いつまでも座っていると、お風呂から上がった真理子がとなりに来て座った。
「歌って、分かった?」
「よく分かんない……」
「分かんなかったか……」
「うん、あのね、歌が分かんなかったんじゃなくて、分かったか分かんなかったか、分かんなくなってるの……。うまく絵にできないんだ」
 真理子は小さな声を立てて笑った。
「ちょっとさむい」
 体育座りをしていたわたしに、真理子が寄り添った。わたしの腕に真理子の腕がくっついた。くっついた腕はほんのり温かかった。わたしたちはそのまま、夏の夜を眺めていた。

 翌日からわたしは、スケッチを再開した。
 真理子の形を写し取ろうとしていたのではなかった。真理子から広がるもの、振動、響き、あの日真理子を抱きしめてわたしの感じ取ったもの、それを試作できたらと思った。
 真理子は手で筋肉の拡がりや伝わる振動を確かめつつ、発声を繰り返している。ただの肉体がよく鳴る楽器へと変貌していく様。真理子という音の中心とその響きの拡がり。
 わたしはあまり形に注意を払わなかった。水彩で、様々な色を使って、フリーに何枚も描いた。何枚も描いて、何枚も描いて、とうとう疲れてやめた。

 スケッチブックを開いたまま、筆をばけつにつっこみ、足を投げ出して真理子を眺める。真理子はトレーニングを中断しない。
 ふと思いついて、水を筆に含ませて、真理子の脚をすっとなでた。
「いやあ!」
 真理子は甲高い声を出して足を引っ込めた。それが面白くて、腕、首筋、頬、額からはなすじ、肌の出ている部分をどんどんなでていった。
 真理子はきゃあきゃあ悲鳴を上げてよけながら、けらけらと笑い出した。
「やめて、やめて可南ちゃん、くすぐったい」
 真理子のTシャツはとっぷり濡れてしまった。
「あーあ、もう、着替えなきゃ」
 彼女は全然恨みごとっぽくなく恨みごとを言い、濡れたTシャツを思い切りよく脱いだ。胸を、水の雫がつーっと伝った。
「見えるよ」
「誰も覗いたりしないよ」
 真理子はあっけらかんと言う。
「体拭かなきゃ」
 バスタオルを探しながら真理子は振り向いて、
「でも、絵に描かれる気持ちがなんとなく分かったような気持ち」
と言って笑った。

 夜寝ていると、隣の部屋から真理子が、
「そっちに行っていい?」
と布団を引っ張ってきた。どっちにしろふすまを一枚隔てているだけの部屋で、ベッドもなく、特に夏はふすまも開けっ放しなのだから、同じ部屋で寝ているようなものなのだが、彼女は布団をわたしの布団の隣につけると、また横になった。

「今日、ちょっと面白かった」
「え?」
「可南ちゃんに筆でいっぱい塗られたでしょ。面白かった」
「そう?」
「うん。歌ばっかり歌っていると、どんどん、知らないものは知らないままになっていくような気がする。肌ざわりとか、匂いとか、味とか……」
「ふうん」
「濡れてみるのもいいものね」

「明日……」
 わたしは言った。
「え?」
「明日海に行こうよ」
「海?」
「うん。そして、西瓜を食べよう」
 潮の匂い、波の寄せて返す力、日差し、西瓜のしゃりしゃりした食感、薄甘さ、わたしたちが絵を描いたり歌を歌ったりしている間においてきたものが、そこにあるような気がした。そういったもので遊んでみるのもいいと思った。
「うん……」
 そしてわたしたちは眠った。

 目を覚ますと快晴で、わたしたちは跳ね起きて海へ行く準備を始めた。
 わたしはおにぎりを幾つも握り、真理子は卵焼きを焼いて刻んだきうりを塩もみした。以前大家さんにもらった粕漬けも切った。それから水筒に冷たい麦茶を入れた。それらをみんな大判のハンカチに包み、手提げに入れた。それからわたしたちはふたりとも引き出しやら押し入れやらかきまわして、バスタオルと水着、ビーチサンダル、日焼け止め、必要と思われるものは何でも、自分のバッグに押し込んだ。
 途中で小ぶりの西瓜を買った。ふたりで食べ切れるくらいの小さなやつ。
「海で冷やそう」
 ビニール袋に入れてもらったそれを前後に大きく振りながら、駅まで歩いた。

 電車に乗ると、三十分ほどで海に着く。
 わたしたちは電車で海に行くのがすきだ。海が近づいてきた頃、電車はぐっとカーブする。その瞬間、目の前に大きく青い海が開けるのだ。遮るものの何もない全景に海は硝子のようにさあっと広がり、その上を高い空がどこまでも続いている。その光景ときたらいつ見たって素敵すぎて、わたしたちは何度見たって飽きもせずはしゃいでしまう。

 水はもっと冷たいかと思っていたら、案外温んでいて気持ちよかった。
 真理子は念入りに日焼け止めを擦り込む。日焼けした椿姫とか嫌でしょ、というのが彼女の主張だ。わたしたちは着替えをし、波打ち際に穴を掘って流されないように西瓜を仕込んだ。

「遊ぼう」

 わたしたちは海に駆け込んだ。わたしも真理子も泳ぎはあまり得意でなく、深いところは怖いので、足のつくところで遊んだ。波は穏やかで、わたしたちは緩やかにもみくちゃにされた。真理子がしきりと西瓜が流されないかを気にするのがおかしかった。

「お腹がすいたわ」
 波打ち際に立って真理子がそう言った。そういえば、太陽はとっくに真上を過ぎている。
「うん。お弁当にしよう」
 わたしたちは海から上がり、ついでに西瓜も引き上げて、海の家の端っこに腰掛けた。
 真理子はお弁当の包みを解いた。
「はい」
 ふたりで分けっこして食べる。おにぎり、お漬物、塩の味。
「潮の味がする」
 真理子が口を開けて潮風を受けているので、わたしも真似をする。

 急にわっと風が吹いて、お弁当を包んできたハンカチが飛んだ。慌ててふたりで押さえると、ハンカチの中でお互いの指が触れた。そのまま、わたしたちはふたりでハンカチを引き戻した。ハンカチは手提げの陰に収まり、その陰でわたしたちの指はからんでいた。

 わたしたちは黙って指をつないでいた。脇で、小さな男の子が騒いでおかあさんに叱られている。でも、この手には気づかない。誰も知らないわたしたちの小さな今。寄せては返す波、海風。時の凪いだような昼下がり。
 わたしの指先にくっきりと伝わる、真理子の指の形。ピアノを弾く、長い、少しがっしりした指の形。指先は熱を持って、その熱が体中をめぐる。

    オーテーテ ツーナイデー
    シーオーカーゼーフーケーバー

 真理子が下を向いて小さく歌った。わたしの方をちらっと見上げて目で笑った。
「ことりにもうさぎにもなりたくないわ。ずっと黙っていたい」
「わたしも」
 わたしたちはお互いの指をお互いの指で確かめ合いながら、長いこと座っていた。

 ふいに、真理子が顔をあげた。
「西瓜、温くなっちゃったんじゃない?」
 それがあまりにも唐突で真剣だったので、わたしたちは急におかしくなり、げらげら笑った。
 案の定、西瓜は温くなっていた。持ってきたのがペティナイフだったので、きれいに切れずに変な風に割れた。わたしたちは手や顔をべたべたにして食べ、その手や顔を海水で洗って、着替えをして家路に就いた。

 わたしの中で、何かが生まれそうだった。初め淡い形のない色彩だったそれは、ゆっくりとゆっくりと日を追って、次第に形になり始めた。
 真理子がいつものようにトレーニングを始めた時、わたしは何か一曲歌ってくれないかと頼んだ。いいよ、と真理子は言って、少し考え、軽くスカートをつまむ仕草をして、ステージ上のお辞儀をした。
「では、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル作、『オンブラ・マイ・フ』」

 歌い出した彼女の、声の暖かな柔らかさに浸り、顔一面に溢れる喜びを見た。
 わたしは、自分の中に満ちてくる思いをはっきりと知った。
 わたし、真理子がすきだ。
 それだけ。わたしにとっては音も、歌も、真理子なのだ。他の誰でもない、真理子が、わたしの中に音の意味、歌の意味を作り出すのだ。
 わたしは自分の描こうとしているものが分かった。わたしの歌が分かった。
 気付くと、歌は静かに終わるところだった。
 わたしは下唇を噛んだ。下を向いた。それから真理子を見て、
「ありがとう」
と言った。真理子は、へんな可南ちゃん、あらたまって、と笑い、自分のトレーニングに戻っていった。

 次の日、わたしは真理子に、
「絵を描き始めようと思うの」
と告げた。もう、八月も終わるところだった。
「課題の提出まであと一か月くらいだから、帰ってきたり帰ってこなかったりするかもしれない」
「うん」
「完成したらご馳走作って」
「うん。可南ちゃん」
「ん?」
「頑張ってね」
「うん」

 わたしは、今まで数えきれないほど描いた、まるで落書きのような真理子のスケッチを持って、学校の門をくぐった。
 実習室では追い込みの学生たちがすばやく筆を動かしている。こもる油絵の具の匂い。わたしみたいにカンバスの真っ白い学生は、誰もいなかった。

「お、井上、描けるようになった?」
 学生の群れの中から、村上くんが声をかけてよこした。
「うん、これからが大変だけど。――あ、いい感じにできたね」
 彼の母子像は、ほぼ完成していた。落ち着いた色調で、程よく抽象化されて、なんだか聖母マリア様とイエス・キリストみたい、と思った。
「まあね。あと仕上げ。じゃ、井上頑張って」

 村上くんに手を振って、自分のカンバスに向かう。画材を取り出し、鉛筆で軽くあたりをつけていく。たくさんのスケッチと、今まで目に焼き付けてきた真理子の姿と、腕に指に残る真理子の感触。絵が、できていく。

 鉛筆を動かしながら思う、この筆がわたしの楽器。このカンバスがわたしの舞台。描こう、真理子にもらってわたしに生まれた音楽を、わたしの中にある歌を。

 それからの約一か月、わたしは怒涛の制作期間に入った。周りのみんなはもう仕上げの段階だったから、間に合わせるためにおそろしいスピードで描いた。一か月の殆どを実習室で過ごし、うちへ帰るのは、お風呂に入るのと着替えを取りに戻るくらいだった。真理子の顔を殆ど見ない。そんな一か月。
 それでもわたしは描いた。課題だったからじゃない。わたしの歌をカンバスの上に浮かび上がらせるために。

 絵が出来上がったのは、夏休みの終わる三日前だった。いい出来なのか、不出来なのか、自分では全然分からなかった。ともかく全部描いた、そう思った。

 うちに戻ると、真理子がいた。おかえり、と言われた。どんなにすぐ学校に戻ることになっていても、会えば彼女は必ず言った。おかえり。
「絵ができたの」
 真理子はぱっと笑った。
「おめでとう。どんな絵?」
「見に来てほしい」
 そう言うと、真理子はうなずいた。
「うん」

 ふたりで学校に行った。夕暮れの実習室。同級生たちの絵はとっくに出来上がっていたから、誰もいない。ふたりだけの実習室。
「これ」

 まだ油も乾ききっていない。濃い、深い青がカンバスを埋めている。中央に、白い歌う人。青に伝わり、青を振るわせていく、歌の響き、歌の波。歌う人の背後から、影のようにそっと抱きしめる人物。そして、おててつないでや、蝶々夫人や、オンブラ・マイ・フや、真理子がトレーニングの時出す声、音、わたしが見て、聴いて、感じてきたものが、歌う人のまわりを取り巻いている。真理子のために描いた、ある、タペストリ。

 真理子はじっと見ていた。
「シャガールみたいだね」
「そうかもしれない」
「タイトルは?」
「『うたうひと』」

 しばらく、間があいた。ぽつりと真理子が言った。
「……歌うって、こんな風に表現できるのね。初めて、歌を知ったような気持ち」
「うん……」
「あれは、可南ちゃん?」
 真理子は歌う人の背後の人物を指した。
「ううん。あれは――歌の守り神」
「そう。守られてるのね」
 真理子は振り向いて言った。
「もう一度、あの時みたいに、してみてくれない」
 冗談を言っているのかと思ったけれど、真理子は笑っていなかった。
「……いいよ」
 わたしは真理子の背後に立ち、そっと体に腕をまわした。手は、真理子のお腹のあたりで軽く組んだ。その上に、真理子が手を重ねた。

 ふと、真理子が呟いた。
「わたし、歌でやっていけると思う……?」
 当り前じゃない、そう言おうとして、言葉が喉で絞まった。違う、多分、きっと、あれは守り神じゃなくて――

 もう、夏は終わる。真理子、あなたは外国へ、そう、きっとイタリアへ行くのだろう。あなたはきっと、歌でやっていける。守り神なんかいらない、あなたはきっと、自分の力でやっていける。わたしはあなたを守りたいなんて思わなかった、ただ、あなたの背後からあなたとひとつになって、ふたりの世界の歌を作りたかったんだ。

「……真理子の歌、すきだよ。真理子の歌があったから、この絵ができた……」
「うん……」
 真理子はそれ以上何も言わず、わたしも何も言わなかった。夕暮れが少し濃くなった。抱き合うわたしたちを包み込み、だんだんと暗くなっていく実習室。
「おいしいもの買って帰らなくちゃね」
 急にぱっと振り向いて真理子が言った。その顔はいつものように笑っている。

 鼻の奥が痛く、でも笑ってしまう。それはとても真理子らしい、あなたは強くて明るいね。不透明な未来への怯えも、やがてくる終わりの予感も、あなたの笑顔はすべてわかっている。
「うん、絵と歌の、お祝いね」

 そうね、おいしいものを買って帰ろう。ふたりで、ふたりのうちへ。わたしと真理子の、ふたりのうちへ。今夜はお祝いだ。


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