HSPは別にやさしくはない。
「HSPは繊細で傷つきやすい」みたいなイメージが普及していることに違和感があったわけだが、それと同じくらい違和感を持っているのが、「HSPは思いやりが深く他人へ配慮してしまいがち」というやつである。個人的な感覚としては、HSPは別にやさしくはない。
思いやりが深いというより、起こりうる結果のパターンを膨大に算出してしまうだけだと思う。条件を変えた様々な場合のシミュレーションがダダダと走り、相手のダメージゼロから100まで場合分けされて、割と精密に結果が弾き出されてしまうというか。だからHSPの場合、そのシミュレーション結果の使い方次第では、相手に対して凄く破壊力のある攻撃を仕掛けることも可能だと思う。
ただしその共感性と感情的反応性の高さのゆえに、相手のダメージもかなり正確に自分の痛みとして返ってくる。わたしが相手に攻撃を仕掛けるときは、割と自爆覚悟というか、こっちもダメージを引き受ける覚悟を決めて攻撃する。だから、他人を攻撃したり傷つけたりした人が「そんなに傷つくとは思わなかった」と逆に傷つき顔をするとか、自分にダメージが返ってきて初めて吃驚する、みたいなことには、「まじかよ、信じらんねーな!」が正直な気持ち。そこらへん準備してから仕掛けてこいよ、と思うし、そういう不用意な攻撃をしてくる人は、こっちが加害者みたいな気分になるから後味悪い。
わたしが元夫に返した攻撃(というより、あれは防衛のための必要最低限の仕掛け、ではあったけど)とその結果起こったことについて考えると、わたしはつくづく、HSPとはそういうものであろうと理解する。
失踪までしちゃうことは予想できなかったけど(そしてあんなに早々に破綻しちゃうことも)、それでも策を仕掛けたとき、最悪の場合は彼が仕事を失うようには、組んだ。勿論、彼がこっちに迷惑をかけない限り、作動しない仕掛けではあったけど。風が吹けば桶屋が、的に、彼に返っていくような形の仕掛け。1年ちょっと経つが、まだ心は痛い。弱ってる時はたまに、泣ける。
でも、だからといって、わたしは別にやさしいわけじゃない。この稿を発表したとき、twitterで「とてもやさしい人だなあと思うし、そんな風に心を痛める必要はない」というコメントをくださった方がいて有り難かったけど、これはむしろ、「分かっててやった」という述懐と、「分かったうえで、今後もやる」という宣言だ。そして、「彼の不幸を望んでいたわけじゃなかった」というのは彼へのやさしさというより自分の心の安寧のためであって、「諸共でいい、不幸にしてやる!」と思えたら、逆に熱意すら感じられるし相手のことまだ好きなんじゃないか。
HSPって、敏感で感受性が高いっていうことは、別に善人であることを意味しない。やさしさとか規範的であるとか他者優先とかそういうのは、別の軸で考えるべき指標だと思う。勿論、HSPかつやさしい、って人はいると思うけど、HSPならばやさしい、ってわけじゃないし(論理式的な意味でね)、少なくとも、わたしはやさしくないし攻撃的で、時に好戦的でもある。だから、HSP=心やさしいみたいな言説を見かけると、居心地悪く感じるし、ちょっと意地悪い気持ちにもなる。いや、やさしさのお墨付きまで得る必要はないんじゃないスか、ってね。書籍『Highly Sensitive Person』によると、「あなたは非HSPである」っていうと「無神経で鈍いってことか」的に不愉快さを感じちゃう人がいるらしいのだけれど、それがそういうことを意味しないように、「HSPである」もまた然り、と思うのよね。