飽きないものを大切にするということ
ベンチャーキャピタリストをやめて実家の寺に入るとき、知り合いに「寺は毎日同じことの繰り返しだから飽きちゃうんじゃない?」と言われた。最先端ビジネスをサポートするベンチャーキャピタリストの日常は、新たな刺激に満ちていて、とてつもなく目まぐるしい。そんな仕事をしていた自分に寺の暮らしがつとまるのだろうか。
で、実際どうだったか。まったく意外なことに、全然飽きない。毎日、同じようなお経をあげているのに、全然飽きない。
まだまだ未熟だから飽きないのかもしれない。何事もそうだが、「もっと頑張れば上手くなれる」と思えるなら、同じことの繰り返しでも飽きずに頑張れる。たしかに、お経にもそういう面がある。
でも、それとは違う気がする。お経に飽きないのは、お経が絶対に分からないものだからではないか。そんなふうに思うようになってきた。
公認会計士試験を受けるとき、飽きるほど簿記の勉強をした。本当に、飽き飽きするまでやった(会計学にも飽きない側面があると思っているが、ここではそのことは措く)。例えば、簿記3級のテキストを読んで練習問題を解けば、その内容が分かる。分かったら、もう読むことはない。簿記3級に合格した後、簿記3級のテキストを読む人はあまりいない(たぶん)。スキルとかノウハウを得るための本とはそういうものだ。分かることを目的とした本は、読者が内容を理解した時に飽きられてその役割を終える。
一方、そうではない本もある。例えば、ニーチェは自らの著書である『ツァラトゥストラ』のことを、「誰にでも読めて、誰にも読めない本」と言った。そこには、分かるようで分からないことが書いてあるということだ。言葉は、必ずしも何かを分かってもらうためだけに書かれるのではない。
お経もまた、「誰にも読めない」のではないか。有名な『般若心経』というお経に「空」という言葉が出てくる。この「空」のことは、絶対に分からない。分かるとは、文字通り、分けることである。何かを何かと分けることによって、何かを何かとして分かることができる。北と南を分けることによって、方位が分かるようになる。
「空」は、無分別とか無分節と説明される。それは、何かが何かとして分かれる以前の事態を指す。我々の世界は、様々に分けられて成り立っているのだが、その分けられた世界の根源には、「空」という全く分かれていない次元がある。その「空」という根源的事態から、分けられた世界が現われてくる。
仏教の修行は、分けられた世界からその根源にある「空」へと還帰し、その「空」から再び分けられた世界へと戻ってくる。これは、「世界の現出の反芻」である。「空」という何も現われていない(まったく分かれていない)ところから、何かが現われる(分かれる)ことを反芻するのである。分からないところから分かる世界が現出するという、よく分からない事態。これを表現しているから、お経は飽きないのではないか。
杉本博司さんの「江之浦測候所」(このnoteの見出し画像)は、人類意識の発生現場を反芻する作品とのことだが、それはまさに世界の現出というよく分からない事態を反芻する表現だと思う。人間の意識が生まれるというのは、何かが分けられて現われることだからだ。
アートは人類の精神史上において、その時代時代の人間の意識の最先端を提示し続けてきた。アートは先ず人間の意識の誕生をその洞窟壁画で祝福した。やがてアートは宗教に神の姿を啓示し、王達にはその権威の象徴を装飾した。今、時代は成長の臨界点に至り、アートはその表現すべき対象を見失ってしまった。私達に出来る事、それはもう一度人類意識の発生現場に立ち戻って、意識のよってたつ由来を反芻してみる事ではないだろうか。小田原文化財団「江之浦測候所」はそのような意識のもとに設計された。
出所)杉本博司『江之浦奇譚』(岩波書店)p.245
世界の誕生を祝福し、それを味わうこと。それは、世界が存在するという奇跡に驚き、感謝することではないか。そういう祝祭性が芸術や宗教の本質にある。
宇多田ヒカルさんの音楽も、まったく飽きがこない。宇多田さんもまた、宇宙の始まり、人類の始まりというよく分からない事態を意識していることが、次のインタビューから読み取れる。
あ、「生み出し方」ではなく、「曲の始め方」って意味ですか?いや、でも結局は同じ話になってくるんですけどね。答えは凄くシンプルだと思うんですけど、始まりと終わりって凄く大事じゃないですか。途中が大事じゃないわけではないけど、例えば物理学で今みんなが一番探しているのは、私たちの今知っているこの観測可能な宇宙の始まりについてだし、人類の始まりとか、あとはこれからどう私たちの銀河系や宇宙全体が滅亡していくのか。人間にとっても、誕生と死というのが一番大事な出来事ですよね。始まる…というか生まれること、つまり生と死ですね。何が一番大事かって言ったら始まりと終わりだと思うし、今マクロな例を出しましたけど、それをミクロで考えても、一曲の始まりと終わりって一番大事だと思う。さらにミクロで言うと、歌い方も「あ~あ~あ~」と歌っている一つずつの、声を出していない状態から声が出てまた声が止まる状態の一つずつのフレーズの始め方と終わり方って一番大事ですよね。色んな始め方と色んな終わり方がある。それを私は歌わない人にどう伝えようかなと思って(考えたのが)、日本人だったら習字が分かりやすいですかね。筆を置いて最初に書き始める部分と、最後にはねるとか払うとか止めるとか、置いた時と筆を上げた時が一番大事なのかなって。私はそんなに習字は詳しくないんですけど、そういうイメージが私自身が筆で絵を描く時にあって。歌もそこを大事にしています。
出所)Billboard日本版、以下のインタビュー記事
宇多田さんが習字を例に出しているのは、本当に慧眼だと思う。ここから写経(という習字)が飽きない理由が見えてくる。写経とは、一筆ごとに世界の誕生を、世界が存在するという奇跡を味わうものなのだ。そもそも、お経が世界の誕生(現出)を表現しているのだから、お経を写すということはその誕生を重ねて反復し反芻するということだ。だから、決して飽きない。
世界の誕生、世界が存在するという奇跡に驚き祝福すること、それを反芻して深く味わうこと。宗教や芸術に見られる飽きることのない営みを大切に守っていきたい。noteでは、自分が飽きることのない表現だと思うものを、写経するが如く紹介して、それを反芻して深く味わってみたい。
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