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杉本博司「海景」が飽きない理由を教えてくれた二冊の本ーー安藤礼二『霊獣ー「死者の書」完結篇』と斎藤慶典『危機を生きるー哲学』

杉本博司の「海景」という一連の作品がとても好きだ。何度観ても、全然飽きない。

海に行くと、ぼーっとして過ごすことが多い。長い時間、海を眺めていても全然飽きない。とても不思議だ。その理由を、知人が次のように教えてくれた。

海は刻一刻と変化しているから、瞬間ごとの景色は唯一無二だ。だからずっと観ていても飽きないのではないか。

なるほど。でも、「海景」という作品には本物の海のような瞬間ごとの動きはない。なぜ、「海景」は飽きないのだろうか。

杉本は、「海景」が人間の意識の発生現場を表現しているのだと言う。

人は他の動物たちから超然として意識を発達させ、文明を育み、アート、宗教、科学を発達させ、歴史を紡いできた。そのいちばん始めの意識の発生現場、それは心の発見と言い換えてもよいのだが、海景にはその発生現場の意識を現代に再び喚起させることができる力が潜んでいるような気がする。

京都市京セラ美術館『杉本博司 瑠璃の浄土』(平凡社)、p.20

「海景」は、太古の人間意識の発生現場を、現代に生きる我々に見せてくれる。この太古と現在が繋がってしまう事態が、「海景」が飽きないことに関係している。

この問題について、示唆を与えてくれる二冊の本に出会った。一冊目は、安藤礼二『霊獣ー「死者の書」完結篇』という、「海景」を表紙にした本だ。

海、それは個人の記憶を超え出て、種としての記憶が甦る場所である。その海と一体にならなければならない。そしてそこからさらに彼方へと旅立ち、彼方へと帰還しなければならない。霊獣たちの故郷、海の彼方なる母の国へと。

安藤礼二『霊獣ーー「死者の書」完結篇』(講談社)、p.61

「種としての記憶が甦る」というのは、「海景」が古代の人間意識の発生現場を現代に再び喚起させるということだろう。海を見ていると、他の動物たちとは異なる人間という種に特有な心が生まれた瞬間が、いまこの場にありありと甦ってくる。「海景」は、それを表現している。

古来より、海は魂の故郷だと言われてきた。人の魂は海からやってきて、死んだら海へと帰っていく。

安藤は、魂の故郷としての海のさらなる彼方を考える。杉本の「海景」も、そこに関わっていると思う。

若き乞食空海が岬に立ち、世界の消滅と生成を凝視していたように、老いた乞食迢空もまた岬に館、世界最後の風景を目にする。

安藤礼二『霊獣ーー「死者の書」完結篇』(講談社)、p.63

(釈)迢空とは、折口信夫の歌人・小説家としての名である。安藤によれば、空海と折口は同じように、海の彼方に世界最後の風景を観た。それは、人が死んだら向かう先である。空海と折口が海の彼方に観た世界最後の風景とはいかなるものか。

それを考えるために、「海景」が飽きない理由を教えてくれる二冊目の本に注目したい。斎藤慶典『危機を生きるーー哲学』だ。それは、「海景」について次のように書いている。

ここで、わが国の現代美術家・杉本博司さんの海景シリーズの中の一枚を思い浮かべてもいい。その大洋は大地に支えられて満々と水を湛え、天空と大地に抱かれた「ただ一つのかぎりない拡がり」がすべてを充たしている。その内で、生きとし生けるものすべての生と死がまたたき、私たち「死すべき者たち」もその点滅に身を委ねている。ここで点滅とは、〈「何か」が「ある」〉と〈単なる「ある」〉の間の往還だ。
 だが同時に、私は、ひょっとしたら「ある」の明滅の彼方に坐しているのかもしれない「神々」を垣間見たようにも思うのだった。

斎藤慶典『危機を生きるーー哲学』(毎日新聞出版)、p.185

この本に独特の言葉遣いなので未読の方には分かりにくいが、〈「何か」が「ある」〉と〈単なる「ある」〉の間の往還とは、死んだ者の魂が海へと帰り、再び海から別の魂がやってきてこの世に生まれるということだ。〈「何か」が「ある」〉次元とは、「何か」としての姿かたちを持った私たち生者の世界のこと。それに対して〈単なる「ある」〉とは、死んで「何か」としての姿かたちを失った者の魂が帰って行くところである。〈「何か」が「ある」〉次元が生者の世界、〈単なる「ある」〉次元とは死者の世界としての海に対応する。

我々の魂の故郷が海ならば、〈単なる「ある」〉が海に相当する。我々は、海から生まれてきて、死んで海へと帰る。しかし、安藤によれば、折口や空海は、〈単なる「ある」〉としての海の彼方に世界最後の風景を観た。

斎藤は、海の彼方に観る世界最後の風景を「神々」と呼んでいる。「神々」とは、ハイデガー特有の術語なのだが、斎藤はこれが世界の「無」なのだと言う。世界が消滅したら、魂の故郷である海さえも丸ごと失われてしまう。我々は、そのことを思考できない。宇宙が存在する前や宇宙が消滅した後のことは考えられない。そういう意味での「無」を「海景」は表現している。

世界の「無」は、自分の死と似ている。自分の死は、決して経験できないし、イメージすることもできない。魂の故郷であるところの海、すなわち死後の世界は、世界の「無」ではない。死後の世界は、文字通り世界なのであって、世界の「無」ではない。安藤や斎藤が、「海景」に観たのは、そういう意味での世界の「無」である。

だから、「海景」は飽きない。「無」のことを分かることは、絶対にないからだ。分かるものは飽きる。完全に分かった算数の問題を何度も解き続けると飽きる。でも、「無」を分かることは絶対にない。だから「海景」に飽きることはない。

こう考えてきてみると、さきほどの知人の言葉は大変に味わい深い。

海は刻一刻と変化しているので、瞬間ごとの景色は唯一無二のものだ。だからずっと観ていても飽きないのではないか。

海を観ていて飽きないのは、瞬間ごとの唯一無二の景色に「無」を観ているからではないか。それぞれの瞬間ごとに立ち現れた波たちは、崩れて大きな海へと還帰して、再び戻ってくるように思われる。しかし、それらは完全に失われて「無」へと至り、二度と帰らない。帰ることのない瞬間ごとの景色は、唯一無二である。絶対に分かることのない「無」に照らされて、唯一無二の景色はかけがえのない輝きを放つ。だから、それに飽きることはない。

<補足>
仏教では、大きな生命としての仏を海、個々の生命を波に例えることがある。波(個々の生命)は、海(仏という大きな生命)から生まれ、死んで海に帰ってゆくというわけだ。でも、全ての生命が大いなる生命に還元されると考えると、個々の存在者の唯一性が軽視されることになる。個々は唯一にして多様に見えるけれども、根本において同じなら唯一性と多様性は単なる見かけに過ぎないことになってしまう。そういう考え方が高じれば、全体主義に陥るのではないか。一方、海の彼方に世界の「無」を観るならば、世界はその相貌を大きく変える。瞬間ごとに立ち現れる生命たちの唯一性が際立つのだ。空海や折口は、そして杉本も安藤も斎藤も、そのように世界を観ているのだと思う。

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