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【ネタバレあり】宇多田ヒカルと「エヴァ」のシンクロ/「曖昧な孤独」に耐えて前に進むということ

『シン・エヴァ』のテーマソング、「One Last Kiss」の次の歌詞がとても気になっています。

誰かを求めることは
即ち傷つくことだった

他者と理解し合えたり、共感し合えるのは、とても嬉しいことです。その反対に、理解し合えなかったり、共感できないときにはとても寂しい思いをします。ひどく傷つくことも少なくありません。

唯一の存在だから分かり合えない

でも、理解し合えないこと、共感できないことにはポジティブに捉えられる面もあると思っています。他者の分からなさは、唯一の存在であることの証しだからです。

唯一の存在には、他者と絶対に共有できない何かがあります。絶対に誰とも共有できない何かがあるから唯一なのです。だから、唯一の存在どうしの関係には絶対に理解や共感が及ばない何かがあり、そのために傷つけ合ってしまうこともあります。

「 One Last Kiss」は、そういう唯一の他者に向けられた曲ではないでしょうか。

私だけのモナリザ
止められない喪失の予感
「写真は苦手なんだ」
(「One Last Kiss」から抜粋 )

「私だけの」は、その存在が唯一であることを思わせます。「喪失の予感」は、失ったら絶対に戻ってこないことの切なさを表現しているのでしょう。唯一の存在はクローンのように再生することはありませんから(「エヴァ」ではクローンもまた唯一性を獲得するところが大変興味深いところですが)、死んだら二度と会うことはできません。「写真は苦手」なのは、クローンと同じように複製可能だからではないでしょうか。

『旧劇場版』のラストシーン

唯一の他者との関係で思い出すのが、『旧劇場版』のラストシーンです。サード・インパクト/人類補完計画実行の後、シンジはアスカと一緒に海辺にいます。人類補完計画は、全人類の唯一性を消し去って、あらゆる人々を同じものとして合一してしまうものです。けれども、シンジとアスカは合一化されることなく、それぞれの唯一性が維持されました。

このシーンで、シンジはアスカの首を絞めます。アスカはシンジの顔を撫でます。シンジは泣きます。そして、アスカの「気持ち悪い」というセリフでこの作品は終わります。

二人のやり取りは、「One Last Kiss」から読み取れる唯一の他者との関係を表現していると思います。シンジがアスカの首を絞めるのは、理解や共感ができないからです。その一方、アスカがシンジの顔を撫でること、シンジが涙を流すことは二人が共にいたいことを意味しています。

唯一の他者と共にいるということは、分かり合いたいけれども絶対に分かり合えない関係を引き受けることです。このシーンで『旧劇場版』が締めくくられるわけですから、唯一の他者のことを分かりたいけれども分からないというテーマは、「エヴァ」において重要な位置を占めているに違いありません。

唯一の他者への愛は喪に似ている

決して理解できない唯一の他者とのやり取りは、死者との対話に似ています。私たちには、死者の声を懸命に聴こうするときがあります。あるいは、死者に何かを語りかけるときがあります。でも、死者との対話がキチンと成就したのかどうかは決して確証できません。私たちは、理解や共感が得られたかどうか分からないままに、死者と対話するのです。

こう考えますと、死者との対話は、決して理解や共感が保証されない唯一の他者への愛と似ています。唯一の他者に向ける愛と喪は同類なのです。

『新劇場版:Q』のテーマソングである「桜流し」は、「あなた無しで生きてる私」、「もう二度と会えないなんて信じられない」という歌詞から明らかなように、愛する死者との対話の歌です。それは、唯一の他者への愛を語る「エヴァ」と見事にシンクロしています。

「桜流し」の次の部分に注目しましょう。

Everybody finds love
In the end

どんなに怖くたって目を逸らさないよ
全ての終わりに愛があるなら

「end」、「終わり」とは死のことではないでしょうか。死の中に愛を見つけるとは、死者との対話のうちに唯一の他者への愛を見出すという意味、つまり喪と愛の同類性を歌っていると解釈できます。さらに、死によって他者の唯一性が際立つという読み方もできると思います。愛する人が死んでしまったら、クローンでもない限り、二度と帰ってくることはありません。だから、愛する人の背後にその死を見たとき、その唯一性、かけがえのなさが光を放ちます。

分かり合いたいけれども決して分かり合えない、そういう唯一の他者への愛、喪にも似た愛を共有しているという点で、宇多田さんと「エヴァ」は響き合っているのです。

※死者との対話は、過去と現在が同時に現われる円環的時間のもとで行なわれます。そのとき、死者は心の中で思い出されるのではなく、いまここに臨在します。そういう時間についてはこちらに書きました。

曖昧な孤独

分かり合いたいけれども決して分かり合えないということは、『新劇場版』の所信表明の最後にある「曖昧な孤独」に相当するのではないかと思っています。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
僅かでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。
(庵野秀明『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』所信表明)

この曖昧ということについて、庵野さんは次のように語っています。

僕の中で"敵"というものが曖昧です。僕と世間という関係が曖昧なので・・・・システムのようなものだと思うんですが。かといってシステムにあらがったところで、どうしようもないと(上の世代の)大人たちが教えてくれましたし。(東浩紀との対談『STUDIO VOICE』1996年10月号)

庵野さんは、自分と世間(世間のシステム)の関係が曖昧だと言っています。また、彼は別のインタビュー(『スキゾ・エヴァンゲリオン』1997年)で、シンジの父、ゲンドウが世間やシステムそのものだと言っています。ですので、ゲンドウとシンジの関係から、曖昧な孤独とは何なのかを探ってみましょう。

シンジは、ゲンドウにかけがえのない唯一の息子として認めて欲しいと思っています。しかし、ゲンドウはシンジのことを交換可能な部品、等質な歯車のように扱います。

シンジはゲンドウに唯一の存在と認めて欲しいと思いながらも、同時にゲンドウのことを絶対に許すことができません。シンジにとってかけがえのない唯一の他者を歯車扱いして犠牲にしたからです。例えば、『テレビアニメ版』のトウジや『新劇場版:破』のアスカです。いずれもゲンドウによって、シンジの初号機が、トウジあるいはアスカが乗った3号機を使徒として殲滅することになりました。

このように見る限り、ゲンドウとシンジの関係は等質性と唯一性をめぐる対立として整理できます。

ゲンドウ:全てを交換可能な歯車扱いする世間→等質性(分かる)
シンジ :唯一の自分・他者を大切にする→唯一性(分からない)

全てを交換可能な歯車のように扱うゲンドウは、世間のシステムの象徴です。世間は、全てを等質なものとして扱うことで成立しています。世間のシステムは、人間が共に生きるためのものです。共に生きていくためには、相互に分かり合うことが必要です。

分かり合うためには、全てを等質に扱わなくてはなりません。世間のシステムを支える最も重要なものは言語ですが、言語は全てを等質に扱います。例えば、自分と他者たちは全く違う人間ですが、みんなが自分のことを「私」という言葉で指し示します。自分のパソコンと彼のパソコンが全然違うものでも、パソコンという同じ言葉で表現します。お互いに分かり合うためには、全てを等質に扱うことが必要なのです。

庵野さんは、ゲンドウ(世間)とシンジ(庵野さん)の関係が曖昧だと言います。ゲンドウとシンジは、どちらが正しくてどちらが間違っているという関係ではないからです。

存在の唯一性はもちろん大事です。だからと言って、全てを等質に扱うことを非難してもどうにもなりません。私たちは言語をはじめとする全てを等質に扱うシステムによってはじめて分かり合うことができ、そのことによって共に生きていけるからです。庵野さんが、「システムにあらがったところで、どうしようもない」と言うのはそういうことだと思います。

私たちは、等質的なシステム(分かること)と唯一性(分からないこと)が分かち難く結びついた世界を生きています。現にいま、唯一性について書いているときも、等質な言語を使うしかないということが典型的です。庵野さんが、自分と世間の関係が曖昧と言うのは、等質的なシステム(分かること)と唯一性(分からないこと)という正反対の両面を同時に生きなくてはならないことを指しているのだと思います。

そういう曖昧さの中で、誰しもがシンジのような孤独を感じるときがあるのではないでしょうか。例えば、世間のシステムの例として会社があります。会社に唯一の存在と認めてもらいたくても、会社は社員を等質な歯車のように扱います。そんなとき、孤独を感じると思います。でも、会社に全ての社員を唯一の存在と認めろと抵抗しても、会社というシステムは全てを等質に扱う言語でできていますから、その孤独が解消されることはありません。庵野さんの「曖昧な孤独」とはそういうものではないでしょうか。

曖昧な孤独に耐えて前に進む

だから、ゲンドウとシンジで戦っても、どうしうようもないのです。等質性と唯一性が分かち難く結びついた世界では、どちらかが勝つということは絶対ないのですから。『シン・エヴァ』で、ゲンドウとシンジが戦うのをやめて対話を始めたのは、そういう文脈で捉えることができます。

等質性と唯一性を対立的に捉えてどちらかが勝つとか負けるなどと言うのは子供です。等質性と唯一性の曖昧な関係、分かりあいたけいけれども決して分かり合うことができない中で、意思と覚悟を示して前進するのが大人です。そういう意味で、『シン・エヴァ』のシンジは大人としてゲンドウに向き合いました。

一方、ゲンドウは、終始、等質化の原理で動いてきました。彼が推進する人類補完計画は、全人類を等質な一つに集約してしまいます。ゲンドウは、それによって妻のユイと一体になれると信じていました。しかし、『シン・エヴァ』の最後、ゲンドウが本当は妻のユイを送りたかったことが明らかになります。ゲンドウとの対話を経て、シンジがそのことを見抜きました。ゲンドウは、ユイを愛する唯一の死者にしたかったのです。ここに、ゲンドウを駆り立てる等質化の原理にも唯一性の原理が分かち難く結びついていたことを見て取ることができます。

『シン・エヴァ』の登場人物たちは、等質性と唯一性のはざまで苦しみながらも他者と関わり、それぞれの形で意思と覚悟を示して前進する感動的な姿を見せてくれたと思います。曖昧な孤独との向き合い方に、決まった答えはありません。各々が等質性と唯一性の曖昧な関係に苦しみながらも、他者と関わりながら見出すしかありません。「エヴァ」はそのことを教えてくれました。

私たちは、等質性で塗り固められた世界を生きているように思えます。経済活動の根本にある貨幣は、あらゆる存在を等質的に扱います。科学技術は論理に基づきますが、その論理は全てを等質に扱う言語から構築されています。でも、そういう等質性の原理と分かち難く結びつく形で、唯一性の原理が伏在しているのではないでしょうか。宇多田さんと「エヴァ」のシンクロは、そのことを示してくれました。

資本主義の中で愛を守る

最後にゲンドウが人類補完計画を進めていた動機が、ユイと合一化したいというエゴイズムにあったことに触れておきたいと思います。ゲンドウは、エゴイズムと等質化を行動原理にしていました。これは、現代の資本主義経済と同じです。では、資本主義経済の中に、唯一性の原理、唯一の他者への愛(喪と同類の愛)が存在しているのでしょうか。

実は、宇多田さんも「エヴァ」も、資本主義経済のもとでビジネスとして作品を世に出しています。それは、エゴイズムと等質性の原理だけで動いているように見える世界の中で、唯一の他者への愛を守りながら前進する姿を見せてくれたのだと思います。

追記;
宇多田さんと「エヴァ」のシンクロについて、さらに詳細に書いたものが「音楽文」に掲載されました。こちらも併せてお読みいただけたら嬉しいです。





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