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死者との対話/末木文美士編『死者と霊性ーー近代を問い直す』から考える

末木文美士編『死者と霊性ーー近代を問い直す』(岩波新書)を読みました。素晴らしかったです!

この本には、末木文美士、中島隆博、若松英輔、安藤礼二、中島岳志という超豪華執筆陣による論考と座談会が収められています。とても読みごたえがありました。近代という大きなテーマをめぐって、さまざまな論点について興味深い議論がされています。そのうち「死者との対話」ということについて考えてみたいと思います。

秋のお彼岸に、お墓参りをされる方も多いのではないでしょうか。墓前で亡くなった方々と語り合う人をよく見かけます。亡くなった親御さんに良いニュースを報告した、今は亡き会社の先輩にアドバイスをもらったというようなお話を聞いたりします。

こういう人たちは、どこにいる死者と対話しているのでしょうか。よく、死者は生者の心の中で生きていると言います。そうならば、我々は記憶の中の死者と語り合っているのでしょうか。『死者と霊性』の見解は違います。

私の記憶の中に死者があるのではなくて、死者は私とは別個に存在している。だから、私が思い出そうと思い出すまいと死者は存在するし、死者というのは私の記憶の作用ではないということです。私が思い出したから死者がいるのではなくて、死者は生者の記憶に依存することなしに存在しているのだと思います。(若松英輔、p.112)
死者は私の記憶に依存しないというのも、これもおっしゃる通りであって、実は私が最初に死者論を考えていた当時は、歴史の記憶論がものすごく盛んだったんですね。ちょうど2000年の頃です。あくまで記憶が主体になっていて、その中に歴史とか死者というものは吸収されてしまうような議論がされていました。それに対して、記憶に回収されないものとして死者を考えなければならないのではないかと思っておりましたので、まったく共感いたします。(末木文美士、p.112)

死者とのやり取りが自分の心の中でなされるなら、自分に都合よく死者の声を作ってしまう可能性があります。例えば、会社の重要な意思決定に際して、「亡くなった先代社長がこの案件に投資しろと言ってるのが聞こえた」などと言って自分の意見を通そうとしたり。戦争の死者たちの声が聞こえると言って、自分の政治的立場(戦争に向かったり反戦を訴えたり)を補強しようとしたり。でも、死者が心の中の記憶と無関係に存在するならば、死者の声を恣意的に作ってしまうことはなさそうです。

自分の心の中の記憶ではない次元で、死者の言葉を聞くとはどういうことでしょうか。中島岳志さんは空海に注目します。

いまのお話(死者と記憶についての議論)から、井筒俊彦の空海論を想起したんですね。「意味分節理論と空海」という『意味の深みへ』に入っているものですけれども、その中で井筒は、空海の果分可説を議論していて、要はコトバの次元というのが存在する、と。言語化された言葉の次元を越えた、コトバの働きというものを空海はとらえようとしていく。大日自らがコトバを語り始める。そのコトバをいかにすれば言語によってとらえることができるのか。記述することができるのか。空海の著作は、その構造的取り組みでした。(中島岳志、p.108)

大日とは、真言密教の本尊である大日如来のことです。中島岳志さんは、死者の言葉は、我々がふだん使っている言葉ではなくて、大日如来のコトバの次元にあるのだと言っています。大日如来の次元における時間は、「永遠の今」と表現されることがあります。そこでは、過去・現在・未来が同時に現われます。過去→現在→未来と流れる普通の時間とはまったく違います。

過去・現在・未来が同時に現われる時間(永遠の今)においては、死者たちは我々と一緒に存在します。過去と現在が同時だからです。そこでは、死者は過去に亡くなった人々についての記憶ではありません。記憶と関係なく、生者と一緒に存在します。

芸術家たちは、この過去・現在・未来が同時に現われる時間(永遠の今)を表現します。松尾芭蕉には、次の俳句があります。

橘や いつの野中の ほととぎす

これについて、哲学者の九鬼周造は次のように書いています。

橘の匂いを現に嗅いでいる瞬間にかつて同じ匂いを嗅ぎながらほととぎすを聞いた瞬間が蘇ってきている。過去が再び現在として同じ姿で蘇っている。全く同じ二つの現在、無限の深みを有った現在がそこにある。時間が回帰性を帯びて繰り返されると言ってもよいし、永遠の今が現に存在していると言ってもよいであろう。(「文学の形而上学」)

九鬼は、「永遠の今」と書いているように、この芭蕉の句に過去・現在・未来が同時に現われる大日の時間を見ています。

小説家のナボコフは、過去・現在・未来が合体するとき、作品が創造されると書いています。

一切は過去と現在の完全な融合にかかっていた。が、天才の霊感には三番目の要素が加わる。すなわち過去と現在と、そして未来(自分の書く本)が、一瞬のきらめきのなかに合体する。(『ナボコフの文学講義』)

宇多田ヒカルさんは、『Fantôme』というアルバムがあるように、死者との共存を歌うアーティストだと思います。彼女もまた、過去・現在・未来が合体する永遠の今を語っています。ちなみに、宇多田さんはナボコフの読者であることが知られています。

「初恋」って歌の歌詞も、初恋が終わった瞬間に歌っているのか、始まりに歌っているのか分からない、そういう時間軸の不思議な感じが好きで(手を円環的に回転させながら)、この曲のミュージックビデオでも、おばあちゃんっていえる女性も少女といえる女性も映っているっていう、少女が歌っているのか、少女時代を振り返っているおばあちゃんが歌っているのか分からないっていう、少女と老後みたいなものを私が同時にこう曲にできたっていうのがすごく意味があるというか、こうなんかすっと出てきたんですよね、それが。(宇多田ヒカル、NHK「SONGSスペシャル」2018年6月)

時間、過去・現在・未来が同時に現われる永遠の今を表現した作品を味わいながら、死者との対話について考え続けたいと思います。

じつは、『死者と霊性』について、一度読書会を開催しました。多様な参加者の方々と色々なお話ができて、とても有意義な会でした。

この本について語り合いたいことが、まだまだたくさんあります。10月にまた本書についての読書会を開催するつもりです。とても楽しみです。

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