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「空海と表現の哲学」について

令和4年2月19日、高野山真言宗高福院は「空海と表現の哲学ーー真言・曼荼羅・即身成仏」というオンラインセミナーを開催しました。文芸誌『群像』に「空海」を連載中の安藤礼二先生(文芸評論家・多摩美術大学教授)が講師を、斎藤慶典先生(哲学者・慶應義塾大学教授)がコメントと問題提起をしてくださいました。本当に刺激的なお話でした。

空海による表現の哲学は現代に通じる

安藤礼二先生は、折口信夫、鈴木大拙、井筒俊彦を媒介としつつ、空海を表現の哲学者と位置付けます。

※井筒俊彦『意味の深みへ』には、井筒の空海論が収められています。また、岩波文庫版では斎藤慶典先生が解説を書かれています。

空海による表現の哲学は、現代でも演じられている能などの芸能に大きな影響を及ぼしています。さらに、現代の哲学や文学などさまざまな表現に空海の哲学を見て取ることができます。安藤先生の文芸批評は、空海(を含むさまざまな文学作品の)の創造的な表現を反復することによって、新たな表現を生み出しています。そして、その意味での創造的な表現の可能性は、私たちにも開かれています。

この私が生きていること自体が表現である

安藤先生によれば、この私が生きていること、そのこと自体が創造的な表現です。空海は、私たちが法身(世界の根源である大日如来、真言宗の本尊)の表現だと考えました。無限の法身の表現として、有限の私たちが生きています。その有限の私たちが、無限の法身による表現を反復することで新たな表現が創造されます。では、法身の表現とはいかなる事態なのでしょうか。

表現は中動態的

空海はサンスクリット語に通じていました。サンスクリットは、主体と客体に分離される以前の動きそのものを表現します。まず、動きがあります。その後で、動きが主体と客体に分かれた形式の言語によって分節されます。法身の表現は、主体と客体が分かれる手前の動きの次元と深く関わっています。安藤先生によれば、それは國分功一郎先生が本に書かれたギリシア語の中動態に通じています。

中動態で思い出すのが、野球選手の「今日はいいところでヒットが出た」という言葉遣いです。なぜ、「ヒットを打った」という能動態を使わないのでしょう。それは、自分を超えた何らかのはたらきを感じているからだと思います。それが、自力でも他力でもない中間的な言い方をする理由ではないでしょうか。スポーツもひとつの表現です。それは、主体と客体が分かれる以前の法身の表現と密接な関係にあります。以前、高福院でセミナーをしてくださった中島岳志先生は、利他や芸術を中動態的な表現として説明されました。

人間中心主義には収まらない表現

空海によれば、法身は六大(地・水・火・風・空・識)の融通無碍な関係の上に成り立っています。六番目の識とは心のことです。自然界における有形無形の諸物と心が融通無碍な関係を結び合っているのが法身です。その表現として、私たちは存在しています。これは人間中心主義には収まらない世界観であり、環境との共生を考えるうえでの手がかりになると思います。空海は、それまでの仏教の五大に識を加えて六大を構想しました。有形無形の諸物と心が融通無碍の関係にあることを説いたわけです。物と心の関係は、今日においても大変な難問です。脳(という物)と心の関係は、いまだに謎だらけです。現代の科学的知見も踏まえながら、六大について考えていく必要がありそうです。今回のセミナーでコメントと問題提起をしてくださった斎藤慶典先生は、この点を創発と基付けというアイデアで検討されています。『危機を生きるーー哲学』に簡潔な説明があります。創発と基付けに限らず、安藤先生と斎藤先生の対話について考えるのに、本書はとても参考になります。

無限の法身と有限のこの私を繋ぐ言葉

仏教は、無限のくうから万物が生まれると説きます。そのくうは、言葉を完全に離れています。だから、言葉を使う有限の私たちと無限のくうの間には完全な断絶があります。これに対して、空海は、無限の法身も言葉を語っていると説きました(法身説法)。無限の法身と有限の私は、法身の言葉によって連続しているのです。この法身の言葉が、真言です。法身は融通無碍に結び合わさった六大ですから、真言とはその響きです。主体と客体が分離する以前の次元で中動態的に響く真言が、この私という表現をもたらします。そして、有限の私が、法身の真言を中動態的に反復することが新たな表現を成就します。真言の反復という表現は、身体と精神と言葉の全部に関わります。真言は、自然の有形無形の諸物と精神が融通無碍に繋がり合った法身の言葉だからです。だから、真言の反復という表現は、身体と精神と言葉によってなされます。

私という表現の媒体

空海の密教では法身が語ります(法身説法)。その法身は、自らを私と呼びます。そのとき、自分を私と語る無限の法身と有限の私は同一です。無限の法身と有限の私が同一の表現であることが、私という言葉によって覚知されるのです。この意味での私は、無限と有限にまたがっていますから、普通の意味での有限の私とは全然違います。斎藤慶典先生は、この無限と有限を貫く私のことを媒体と呼びます。この媒体という場所(西田幾多郎の場所と同じ意味です)で、中動態的に真言が響きわたることで私という表現が成立します。そして、私がその真言を反復することで、新たな表現が創造されます。

ファシズム的な危うさ

斎藤先生は、法身の表現として全てが存在するという考え方にはファシズムのような危険性があるのではないか、という問題提起をされました。いくら私たちが多様だと言っても、根本において法身という同一のものであるならば、個々の唯一性や多様性は消し飛んでしまいます。各々の唯一性や多様性が大切にされなければ、ファシズムに陥ってしまうのではないか。これは、非常に重要な問題です。法身という母胎から私たち全てが現われるという一方通行として表現を理解したら、その危険性があると言わざるをえません。全てのものは、法身という根源に還元されてしまうからです。これに対して、井筒俊彦は法身のはたらきを一方通行ではなく双方向的に捉えています。今回のセミナーでも安藤先生は、空海の『般若心経秘鍵』についてのお話のとき、『般若心経』の「ギャーテー」が、往くことと来ることを同時に意味すると述べられました。これは、法身の表現が一方通行ではなく双方向であることを示しています。法身は全てを生み出す母胎であると同時に、全てを無化する動向を持ちます。法身はサンスクリットの最初の文字である阿字によって示されます。この阿は否定の接頭辞でもあります。法身は、全てがそれを起点に生まれていく動向と、全てを否定する動向の両方を持つのです。このように法身の表現を双方向的に捉えることが、この問題を考える手がかりの一つになりそうです。

遠心力と求心力を同時に生きる表現

空海は、仏教の外へと出て行きましたが、戻ってきて新たな仏教を創造的に表現しました。空海自身の生き方も、社会制度の外に出た後、再び戻ってきて新たな社会制度を構築するというものでした。システムを出た後、そこに戻ってシステムを刷新するのです。そこには、システムから離れる遠心力とシステムを構築維持する求心力が同時に働いています。それは、『般若心経』の「ギャーテー」が、往くことと来ることを同時に意味すること、法身が全ての母胎であると同時に全ての否定であるという両義性を持つことに通じています。空海の表現とは、遠心力と求心力を同時に生きることなのです。この両義的な表現は、現代のイノベーションという創造的表現にも見て取ることができます。以前、そのことを別のnoteに書きました。

贈与としての表現

空海以前の仏教では、世界の根源であるくうは言語を離れていました。これに対して、空海は法身が言語で表現するのだと説きました。言語は、差異によってできています。北という言葉は、それだけでは意味を持つことができません。東、西、南との差異によって、はじめて北という方角が成り立ちます。ということは、空海は法身に差異を見たのではないでしょうか。法身に差異を見るとは、法身ではないもの、法身の外部を見るということです。斎藤先生の著作を読んで、法身の外部とは法身の「無」ではないかと思うようになりました。その次元を思考するとき、法身がなぜ存在するのかが問われます。法身は(つまり世界は)ひょっとしたら「無」くてもよかったのかもしれないのになぜあるのだろうか、というわけです。このとき、法身(世界)の存在が奇跡であることが明らかになります。法身(世界)の存在根拠を見出すことができないからです。この奇跡は、贈与と呼ぶのにふさわしい事態です。誰かからの贈与には、何らかの返礼をできます。しかし、法身を贈与したのは「無」ですから(法身を贈与できるのは法身の外部の「無」でしかありえません)、お返しのしようがありません。法身が存在することは、純粋な贈与なのです。したがって、法身の表現は、その根底に贈与性を帯びています。なお、この法身がなぜ存在するのかが問われる次元では、ファシズム的な危うさが緩和されます。法身を決して揺らぐことのない世界の地盤と考えるから、全てを法身に還元する理屈が成り立つわけです。しかし、法身の存在基盤が問われるならば、ファシズム的な世界観に立つのは難しくなります。

悟りと救済

仏教の修行は世界の根源へと向かいます。空海は、その果てに説法する法身に到りました。法身が言葉を語るのは、法身がその外部の「無」と関わることで差異が生ずるからです。そして、「無」と関わることは、法身(世界)の存在に奇跡的な贈与を見て取ることです。ところで、法身(大日如来)のことを、自受用身と呼びます。受用とは享受という意味です。自受用身(法身、大日如来)は、純粋贈与による奇跡的な世界の誕生、すなわち法身の言葉による表現を自ら享受している(味わっている)のだと思います。そして、法身の表現である私たちもまた純粋贈与という奇跡を生きています。法身(大日如来)は、そのことを私たちに示してくれます。私たちは、法身の言葉の反復を通じて、純粋贈与の奇跡を享受できます。空海による救済(慈悲)を、この純粋贈与という奇跡の反復的な享受に求めることができるのではないかと思います。

即身成仏という表現

空海は『即身成仏義』に、「重重帝網なるを即身と名づく」と書いています。重重帝網とは、帝釈天(インドラ神)の宮殿に張り巡らされた網のことで、それは無数の宝珠で結ばれています。それぞれの宝珠には、全ての宝珠が映ります。即身とは、無数の宝珠が互いに全てを映し合う重重無尽のネットワークを生きることです。宝珠のたとえが示すように、私という媒体において世界の全てが表現されます。媒体が互いに全てを映し合う世界を表現していくことが即身成仏なのだと思います。ところで、この帝釈天の網の世界観は、華厳哲学も説いています。空海は華厳の本尊である毘盧遮那仏は言葉を離れているが、真言密教の大日如来は言葉を語ると説きました。法身説法です。したがいまして、華厳による帝釈天の網と空海のそれは異なっているはずです。安藤先生は『群像』に連載中の「空海」第四章「真言」で、空海が無限の外部へ出て行こうとした、と書かれています。これは、上述した無限の法身の外部を考える哲学と響き合うものです。空海の重重帝網という表現を、法身の外部が関わる問題系(純粋贈与という奇跡など)を視野に入れて考えていきたいと思います。このような表現は、宗教、哲学、文学、芸能に限らず、上で例示したスポーツや経営などさまざまな分野に見て取ることができる気がしています。

おまけ

安藤礼二先生は、2021年のベスト書籍に『デヴィッド・ボウイ 無を歌った男』を選んでいました。

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この本の著者の田中純先生は、次のように書いています。

ボウイの作品は、ジェンダーや生死の境界を横断するようにして自己を作り変える、生の可塑性を体現する音楽なのである。

「生死の境界を横断する」とは、法身がその外部である「無」と関わることに通じるのではないか、と思いました。ぜひ、ボウイの表現を空海の表現の哲学の見地から味わってみたいです。


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