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絵と小説のアプローチは逆ベクトル?

これは以前からずっと私の中にある確固たる信念なのだが、絵などのグラフィック表現は、言葉で表現できないものを表現することにこそ存在意義があると思っている。

完成した一枚の作品を置くだけで、アトモスフィアだとかそういった様々なものがそこには内包されており、見た人の内面で無意識下に自らとの対話が始まり様々な感想が生まれる……そういった表現であることが必要だ。だから絵に文章の説明は必要ないし、なんならタイトルすらいらないように思うことが多々ある。

絵画作品を説明文の範疇で言語化することはできなくはないのだろうけど、おそらくやたら長い文章になったりして冗長になり、結局作品レベルで変換することは不可能なはずだ。

これは昔からことあるごとに思ってきたことなので、自分の中では当然のような考えになっていたのだが、では、小説とかの、文章のみで構成されている作品というのはいったい何なのだろうか。私にはその正体がよく分からなかった。自分は文章作品をほとんど読まないし書かないしで、よく分からないままぼんやりと生きてきてしまった。分かるのは小説にはストーリーが存在して、なんかお話として続いてゆくものだという点だけだったが、私はそもそもストーリー生成というものが全然できず、思いつくのは必ず一枚絵の情景だった。それを絵として表現するか文章として表現するかの違いはあれど、自分の頭の中にある映像世界を他人に伝えるための手段であることには変わりがない。絵の具が言葉に置き換わったような感覚だろうか。なので基本的にはセリフの全然ない、情景描写の地の文だけが延々と続く掌編になって終わることが多い。

ただストーリーの存在を抜きにしても、その本質をよく分かっていなかった気がするなあというのがこの話の主旨だ。

最近になって、小説を生み出している人がどのように生み出しているのか?みたいな話を読む機会があり、知ったのは、ざっくりいうと「なるべく少ない表現で読み手の想像力を働かせ、読み手の頭の中に映像世界を構築してもらう」みたいな話だった。多少誤解している部分があるかもしれないけど、これはさんざん言われてもいざ書こうとすると実践できず、いまいちピンと来ていなかったのだが、この記事を読んだとき急になんだか腑に落ちた感じがした。私がこれまでの人生で一度たりとも考えたことがなかったような内容で埋め尽くされている記事だったからだ。

私が感じたのは、つまり絵と小説とは、鑑賞者へのアプローチが真逆の方法なんじゃないか?ということです。絵はその表現内にすべてを描写することが多い(もちろん敢えて描写しないことにより想像力に委ねるという高等アクロバティック技術も存在する)けれど、その方法論については基本的に逆ベクトルのものなのではないか?みたいな考えです。

一の言葉が百倍にもなって脳内で映像化できるのが小説だとすると、どんなに想像力による拡張が可能になろうとも、言葉の表現では永遠に到達することのないものを常に発信し続けるという、いわば対極に位置しているのが絵ではなかろうか。

だとすれば、絵と小説は全く別の存在として共存可能なんじゃないか……小説に挿絵をつけるとかそういうことではなくて……文章で映像世界が完成しているものに更に絵をつけるのは過剰になりがちでかなりの高等技だと私は常々考えており……何か新しい形でのコラボレーションができないだろうか……みたいな、非常に漠然とした可能性というか希望のようなものを抱いたのだが、それ以上はとくに何も考えていないので、掘り下げることはせずに終わる。


ヘッダー画像は浮遊する生首の絵(?)です


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