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『タイムロッキングコンテナ』で私の人生は変わった。

スマホ依存から抜け出せない私と、運命の出会い。

 多くの人が悩みを抱えている”スマホ依存”。いや、もはや自身が依存している状態だと認識すらできない、それほど当たり前のように人々の心と頭を蝕む”スマホ依存”。活動力の低下、意欲の低下をもたらすこれは、私からすれば、”キングオブザ現代病”といっても差し支えないほどだ。

我が身を顧みて、その恐ろしさと強大さを痛感する。何せ、”スマホ依存”というものに自分が当てはまることを認められない。生活必需品というイメージが定着しており、「持っていなくては何もできない。」と、心底思ってしまっている。否、心底思っているとすら自覚できない。冷静に考えると恐ろしい。

こんな小さな媒体に楽しさを求め、無我夢中で画面をスライドし、気づけば1日が、1週間が終わっている。1日の終わりには、いつも「またやってしまった。」「明日こそ変わろう!」と意気込むが、起床後、ロック画面を開き、SNSの通知を見る。最新のタイムラインを確認し、昨晩観た動画を意味もなく再度視聴する。

依存している!と特に強く感じるのは、「明日こそ変わろう!」という意識は強く持っているのにも関わらず、全くの無意識のうちにスマホを触り、SNSをいじり、沼にハマってしまうこと。そしてその際、「あぁ〜、またやってしまっている。」という自覚はよぎることだ。なのにも関わらず止めることができない。これは本当に恐ろしいことである。

私は他にも負の習慣を多く持っている自覚もある。間食が多い、ドカ食いしてしまう、テレビゲームを長時間やってしまう、など色々ある。

過去に、それらを解決する方法を調べたこともあり、最も私の肌身に合っているなと感じたのは、
『依存を脱却するには物理的に無くす、またはさわれなくする。』
『望ましい習慣で時間を目一杯使ってしまう。』
など、負の習慣を断つために強制性を利用する、というものだ。

間食してしまうことに対しては、
お菓子をそもそも買わない、家に置かない。つい余計にお菓子に手を出してしまうコンビニに寄らない。味噌汁など健康的な汁物を多く摂取し、お腹いっぱいにしてしまいお菓子の入る余地を無くすなど。
テレビゲームを長時間やってしまうことに対しては、
暇さえあれば外出する、運動をたくさん取り入れる、読書を取り入れるなどである。

スマホ依存の脱却について何かないかと考えた。この世で私が初めてなる症例ではあるまい。必ずこれに対して打開策を提示してくれている人がいるはずと考え、調べてみた。

その中で、私の肌身に合っている、いくらか強制を伴うスマホ依存脱却のアイテムを発見した。

その名も「タイムロッキングコンテナ」である。

スマホカバーをつけたままでもしっかりと収まる長方形の箱状のもので、それをしまった状態で時間を指定する。そしてボタンを長押しすること10秒弱。なんと、指定時間が経過するまで、コンテナは一切開かず、完全に封印されてしまうのだ!

物理的にスマホを触れなくすることで、スマホ依存を脱却するという、なんともシンプルというかストレートというか、言葉を選ばずいうならば、脳筋スパルタスタイルの解決法なのである。

私はそれをみてビビッときた。「これだ!」と感じた。

30代になり、人生を豊かに過ごしたい、立派な日本男子として活躍したい、という欲が強くなってきた。良い習慣を取り入れることは頭が働くが、悪い習慣を断つのがもっと大切であると感じていたこの頃である。

運命を感じざるを得なかった。即購入した。


タイムロッキングコンテナのある生活。良いことづくしすぎる。。。

 さぁご対面。なるほどシンプルな構造で、スマホが裕に収まるサイズ感。どれだけの時間封印するのか、封印開始後、開放までの残り時間はどれだけなのかを表示するデジタルタイマー画面。

封印することでどれだけの影響があるのか、自分の中の気持ちにどのような変動があるのか、興味が膨らむ。

さぁ初封印。正直、大きな抵抗、葛藤はあったが、思い切っていきなり10時間ぶちこむ。

カウントダウンが始まる。なんのボタンを押しても全くの無反応。ただそこにあるだけの長方形のプラスチックの箱になってしまった。

スマホ無し生活の始まり!かと思ったが矢先、戦慄が走る。

なんと、封印されている状態のコンテナに興味が散ってしょうがない。いくら触ってもうんともすんとも言わないコンテナを、つい触ろうとしてしまう自分がいる。何度も何度も「ひょっとして開いたりして。」みたいな感じで手に取る。どれだけ依存しているのか、、、血の気が引く。自分にドン引きしたのを鮮明に覚えている。

スマホで遊ぶことができなくなったので、今までわずかな隙さえあれば実践していた暇つぶし法がなくなってしまった。

ならばと、自己研鑽の本などでたくさん学んできた望ましい習慣を多く実践してみた。物思いに耽るための散歩。読もう読もうと思っていて結局読めていない本をじっくりと読書。強い男を取り戻すための筋トレ。やったほうがいいと思っていながらもスマホに時間も活力も奪われていた趣味。しっかりゆったりと体を芯まで労う入浴。やることがなければ、なんならさっさと寝てしまい、睡眠時間をしっかり確保する。

封印するタイミングは、主に寝る前と帰宅後である。
寝る前に封印する際は、時間設定を工夫する。スマホをいじる暇などないの、仕事が忙しくなってきた時間に解除できるようにする。重要な仕事では触れるようになるので、支障はなくなる。

帰宅する直前に封印することは、その日1日の充実具合を左右するほどに重要だ。仕事終わり、疲れも溜まっているところに、安心してくつろげる家の中では確実にスマホをいじってしまうからだ。玄関をくぐる前はかろうじて負の習慣を断とうという初志に立ち返れる。このタイミングで封印。緊急の連絡が入っていないかを確認するため、21時ごろに解除するよう時間を設定する。ちらっと確認したら、再び封印する。

スマホを封印することで、暇つぶしの最強ツールが無くなった。それにより時間が生まれるから、必然的に「何かしよう。」と感じるようになる。

また、そもそも「自分を変えたい!」という意識で始めているから、以前からやりたかった、自分を高める活動(ハードルが高く感じていたものや、スマホに逃げてしまうもの)をやるようになれるのだ。

しかも、割とあっさりなれる。スマホがなくても、生活の質はまるで変わらない。(私のライフスタイルにおいては、だが。)ふと気づけば、夢見ていた活動的な男の仲間入り(入口が見えてきたくらい。)ができていた。

このスマホ封印生活に慣れてくると、逆にスマホにここまでの活動、習慣、エネルギーを、手のひらサイズに収まる平らな物体に全て奪われていたのかと思うと、もはや己の無力さに憤りすら感じるほどである。

また、スマホ封印生活からしばらくして、ある好奇心が湧いた。「かつての自分の生活はどのようなものだったのか。」というものである。次の日は休みだったので、あえて以前まで自分が行っていた生活スタイルに戻してみたことがあった。

「これが私のデフォルトだったのか、、、!!!」

と、嘆いた。朝からスマホをいじりたくてしょうがない。外に出る気力がほとんどわかない。筋トレや読書など、「昼からやろう」「夕方からやろう」「明日からやろう」と、どんどん先送りにしてしまう。1日の終わりに、何の生産性も、実りも、成果も残せていないことに気づく。後悔の念が湧いても日は落ち、もう何をするにも遅い。その鬱憤を晴らすため、再度スマホに手を伸ばし、夜ふかしをする。眠いと分かりながらも画面を次から次へとフリックする。日を跨いでも止まることはなく、とてつもない自己嫌悪からスマホをやっと閉じ、頭のギンギンに冴えている状態でベッドに飛び込む。眠りの質は最悪で、翌朝、頭が全く働かないうちに無意識のうちにスマホに手が伸びる。

ここらでこの実験は強制終了した。無理やりスマホを封印した。

後悔の念が次から次へと湧き上がる。
この生産性の低さ、自己嫌悪の塊、睡眠の質の悪化、集中力の低下した状態が私という人間のベースとなっていたのか、と。
学生の頃からタイムロックコンテナに出会えていたら、と。
小豆ハードル習慣術も併せていれば、一体どれだけの実績を積めただろうか、と。

少し涙目になるほどの悔しさを感じたが、「いや!まだまだだ取り戻せるはずだ!!」と自分を鼓舞し、切り替えた。疑ったこともなかったが、私は(私の状態は)どん底だったのだ。ならばここから上がるのみ。

タイムロックコンテナと共に歩む人生を己に誓った。


ちなみに、「緊急の連絡が入るのでは?」という不安があったことは事実だが、心配無用。なんと、12時間封印していても、早急な返事を要する連絡なんて1件も入っていない。こんなに連絡のないものに対し「いつ返事くるかなー。」と心待ちにして、脳と心のキャパをいくらか割くのは無駄でしかない。(ちょい寂しい気もするが。)仮に連絡が入っていても、1日のどこかでまとめて返信でOKのものが大半である。(一応言っておくと、私は人並みには友人との付き合いはある方である。)

長時間スマホを封印してみて思うのは、「緊急の連絡が入ったらどうしよう!」と、常に頭の片隅にスマホがあることが、凄まじくストレスフルな状態である、ということだ。

同時に、「スマホなんて気にする必要がないんだ。」という理解が、圧倒的に心的負担を軽減してくれた。

さらに付け加えると、封印している間はスマホの画面すらロクに見えない状態になるが、電話がかかってきた時に応答することができるだけの小さな窓のようなものがある。つまり、本当の緊急事態、どうしても出なければならない連絡(電話に限る)を、受信した際にのみ応答することはできるので、全く連絡が遮断されるわけでもない。そこは安心できる。

『スマホを封印する』 たったこれだけで幸福度が上がった理由

だんだんスマホがない生活に慣れる。そうすると、以前まででは考えられなかったようなことが楽しく感じてくる。散歩しているときに青空が広がっている。本の続きが気になってしょうがない。日誌を書くことがこんなにも生産性に好影響を及ぼすとは。以前では考えられないことである。

スマホの悪影響として、よく歌われているのが、ドーパミンレベルが異常状態になること。早い話が、快楽物質『ドーパミン』が異常なほど分泌され、その奴隷になってしまうらしい。

人間の脳みそは、原始時代の頃から構造が変わっていない。いくらテクノロジーが進化しても、いくら常日頃からスマホをいじっていても、脳みそは対処しきれない、そもそも対処できる構造になっていないのだ。

そんな原始時代の環境に適している脳みそなのに、原始時代では到底考えられない、処理しきれないレベルの快楽を指先一つで生み出せるスマホ。これをしてしまうと、「こんなに簡単に充実した世界が!」「楽しい!もっと欲しい!」と脳みそが感じてしまい、脳みそは達成感に満ち溢れてしまうのだそうだ。

本来の人としての喜びや楽しさ、達成感とは、人との対話、農作物が収穫、いつもより美味しく調理ができた時、素朴な味のよさに気づいた時、狩りが成功した時、狩りの為の稽古で、自分の成長を感じた時に感じるものであった。

特に、我々日本人は、縄文時代、人との争いをした形跡が残っていないらしく、闘争の中に喜びは見出していなかった。身近なものの中に最大の快楽を感じ、そこには少なからず、人との関わりや、活動、努力、汗が伴うものであったはず。その末にまつ喜び、達成感のために、日々頑張っていたはずなのだ。

それが、現代では人差し指の1フリック、1秒未満で、美麗な映像、容姿端麗な異性、あらゆるエンターテイメント溢れる面白いものが出てくる。

原始の脳みそからすれば、これは妖術であり、奇跡である。それが手元にある以上、「こんなに楽に奇跡のような楽しさを得られるなら、普段の努力なんて馬鹿馬鹿しい」となってしまうのだ。

考えてみれば、現代(それも、ほんのここ数年)のテクノロジーの発展は、人間の脳みそからすれば異常事態なのである。

いくつかの脳科学に関する本や、脳科学者の方が発信するネット記事に共通することをまとめるとこういったことから、スマホ依存は未曾有の大病なのだそうだ。ここまで言われると、スマホによるパフォーマンスの低下、パフォーマンス水準そのものの低下は、なるほど納得がいく。

それが、スマホを封印すると、元の縄文時代の脳に戻れる。物思いに耽る楽しさがわかる。会話したくなる。鳥が会話して聞こえる。

これが本来あるべき人の感じる喜び、幸福なのか。スマホの仮想世界より、何倍も、何百倍も、現実世界の方が面白く、喜びと幸せに溢れていることに気付かされた。

タイムロッキングコンテナとこれからの私

 私は、何事においても「型にはめる」というのは必要であると思っている。学生時代の部活動やテスト勉強、仕事などでは必ずセオリーがありそれを体得しているのが前提で事が進む。ある種強制?されるから頑張らなければ、と感じるわけだ。

小学生時代、掃除当番は誰しもが経験した事だと思うが、あれは心が綺麗な人が掃除をするのではなく、「掃除をする」という型にはめることで、「人のために綺麗にする、綺麗な状態を保つのって気持ちい!」と心が綺麗になるのだ。体(行動)を型にはめることで心が育つのだと思う。

一見やらされているように見えるが、その状態に強制的になることで、新たな喜び、楽しさに気づける。そうして心が育つのだと思う。

スマホの封印の場合、スマホ使用制限を強制することで、本来の脳が求める本来の喜びを再認識できた。加えて、スマホの恐ろしさを再認識し、本来の喜びを知ったことで、「もうスマホいらない!」という思いがより強固なものとなる。

型にはめることで、基本形に戻れた。

そして、発展など求めなくても、人間の基本形、本来の姿、本来の生活は、至上の喜びと幸福が身近に溢れていることが気づけた。基本にして最高点であったわけだ。

この世界を、喜びを、多くの人に知ってもらいたい。同じ悩みを抱えている人に、強く強くオススメしたいアイテムである。

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