写真遍歴#1 プリクラ
写真遍歴を振り返って何章かに分けてお話していこうと思います。まずトップバッターは「プリクラ」
小学3年生くらいになると学校でプリクラが流行りだした。
今は見かけませんが、当時はゲームセンターだけでなくお店の一角にぽつんとプリクラがあったりして、私たちが足繁く行っていたのは100円ショップの中に併設されていた200円のプリクラ機でした。
私の家のおこずかい制度は、月に1年生100円、2年生200円、3年生300円…という僅かなものだったので、それとお年玉とを上手く考えてお金を使う必要があり
200円というのは当時からしてみたら大金で、200円を割り切れる2人か4人のメンバーを休み時間に決めて撮りに行くか(確か8人もしたことある)、鍵っ子でご飯代を毎日もらっているクラスメイトがたまに一緒に撮らせてくれるかして、おこずかいの大半をプリクラに使う生活をしていました。
撮ったものはノートや筆箱、下敷きなどの人目に付く使用頻度の高いところに貼って
人が集まっている机があれば、そこにはだいたい新しいプリクラがありました。
誰の変顔がおもしろい、この可愛いデコは誰が描いたのか、複数人で合わせるポーズが成功していてすごい
など、みんなが注目してそれに対してレビューするのが通常でした。
プリクラを撮る時の協調性はすごくて
まずメンバーを決める時もトラブルになった事がなかったと思います。事前に髪型を揃えたり、ポーズのディレクションは誰が担当するのか、落書きはむやみにやりたがらずに、その時上手く仕上げてくれる人がいたら任せる。
時間制限があるので、お互いに進捗を確認しながら役割分担をして
プリクラの枚数と全体のデコのバランスを見て、こっちは猫耳をつけたからこれは名前と日付だけ描こう
など、間違いなくグループ制作だったと思います。
私はLOVE SMILE ENJOY の英語を書けたことでペン書きを任されることが多かったです。そればっかりを書いていたと思います。
最後にプリントされた台紙をハサミで切って均等に分けるのも重要な役割でした。大抵はその場にいる一番器用な人の仕事でした。
プリント代は人数が変われど同じなので、1枚だけでいいなら大きくプリントされ、人数が増えれば増えるほど写真の比率が小さくなります。
全部が同じレイアウトでプリントされる訳では無く、そこからお互いが欲しいものを分け合うための話し合いが設けられました。
そういった時に、これは何ちゃんの写りがいいから、これは何ちゃんの力作だから自分で持っていた方がいい
とか、穏便にことが運ぶようにしていたと思います。
一緒に撮った相手がそのプリクラをどこに貼ってくれるのかはとても気になりました。
今で言うInstagramのような感じで、フィードにのせるのか、ストーリーズにのせるのか、何も載せないのか、タグ付けをしないで自分の写真だけ載せるのか
そういった、自分との写真写りの満足感やどれくらい仲がいいと思ってくれているのかなど、貼る位置で関係性を感じ取っていました。
プリクラで勃発する事件といえば、時間制限に関することです。今のプリクラは自分で好きなタイミングでシャッターを押せたり、ブースが複数あることで落書き時間が担保されてる機械がほとんどだと思いますが
私が撮っていた機械は確か1つしか落書きスペースがなく、もしすぐ後ろに人が来ていたら落書きの時間制限がとても短くなるものでした。それは時限爆弾のように私たちを切迫させ、その後の空気が悪くなる要因だったので
撮影前にはプリクラ機の周囲をうろうろと確認し、他に撮りそうな人がいないか視察した後にお金を入れていました。
他には落書きブースが複数ある場合に間違えて他の人の暖簾をめくってしまうのも当時からしたら恥ずかしくて小一時間忘れられないことでした。大抵の場合、右から出るか左から出るか、機械音声が誘導してくれるのですが
配置の関係で片方からしか出られない機械もあり、そういった時によく起こりがちだったと思います。
小中学生の時はプリクラを撮る約束を取り付けて遊んだり、遊んだらまずはゲームセンターに行ってプリクラを撮る流れに自然となって
おこずかいが少なくみんなが平等にお金を払っていることや
スマートフォンが普及してないことで撮る撮られるの関係が無く、みんなが撮られる側だったことから
1枚の写真にかける思いが違ったし、みんなが意志を持って作品制作のような心持ちで撮影に挑み、それぞれに感想を持っていたように思います。
今回振り返ってみてまた久しぶりにプリクラが撮りたくなってきました!今のプリクラはきっとすごい進化を遂げているんだろうな…
それではまた👋
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