「韓国語を勉強する人」になる
「愛の不時着」を皮切りに始まった私の中の韓流ブームは、今や世界最強の勢いで成長している韓国のソフトパワーの恩恵を受けとどまることを知らなかった。
「愛の不時着」→NETFLIXの韓ドラ→「梨泰院クラス」→パク・ソジュン→「花郎」→テテ→BTS→韓国語勉強→ハングル能力検定
と、ざっくり時系列に沿って振り返ってみるとこんな感じだ。
明らかにどこかの誰かが仕組んだであろうマーケティング戦略にまんまと引っかかり、カモにされている。しかし、カモにされている自覚を持ちつつもその誘惑に勝てないのである。
私の以前の趣味は「スペイン」であった。
フラメンコを少しかじってスペインに興味が湧きスペイン語を習い、挙句の果てにスペインに10年も住んでしまった。そして日本に帰国した後でも趣味の「スペイン」への情熱はあまり冷めなかったのに日本で「スペイン」に触れる機会は著しく低下し少々手持ち無沙汰になってしまったのだ。
そんな時、うっかり覗き込んでしまった「韓流」という沼が底なし沼だった。NETFLIXで一度韓ドラを見てしまうと「あなたへのお勧め」がどんどん韓ドラになっていき「あら、これも」「あら、こっちも」と暇人を廃人にする誘惑の沼へご招待されてしまうのだ。そして「愛の不時着」を見る前に感じ取っていた手を出したら戻れない強烈な危険な沼の存在をBTSにも感じていたにも関わらず結局そっちの沼にもハマってしまうという結果になってしまった。
そして私は「韓流」にハマった人の中で一定数の割合で出現する「韓国語を勉強する人」となったわけだ。
語学習得の目標として良く耳にする「字幕なしで見たい」とか「彼らの言葉を直接理解したい」とかがあると思うのだが、残念ながら私の頭ではそこにたどり着くのにはかなりの時間が必要になるだろうし、正直そこまでのレベルに到達することを目標にしている訳ではない。
では私は何故なんのために韓国語を勉強しているのかというと、「韓流にハマる」ことに対して多少なりとも伴う後ろめたさみたいなものを「語学勉強」という崇高な趣味に格上げすることによってカモフラージュして誤魔化しているのだと思うのだ。
世の中には「韓流が好きな人」と「好きではない人」が存在すると思うのだが「好きではない人」に、「韓ドラやBTSにハマっている」と言うと何故だか敗北感にも似た恥ずかしさを私は感じる時が多々ある。この恥ずかしさの出所を探ってみると私には「韓ドラやBTSにハマっている」の文の前にうっすらと潜んでいる『こんな年なのに』という枕詞が見えるのだ。
しかし、「韓ドラやBTSにハマっている」と言った私を若干冷ややかな目で見つめてくる人々に対し「で、韓国語を勉強し始めて今度試験受けるんだ」と続けるとほとんどの人が一瞬ちょっと見直してくれるのだ。
こんな体験を経て私の脳内では「韓国語の勉強まですれば『こんなおばちゃん』でも韓ドラやBTSにハマっても恥ずかしくない」という不思議な言い訳が成立し、更に韓国語を勉強しようというモチベーションにつながったのである。
そうして約半年間独学で韓国語を勉強した私は2022年6月5日に初めて「ハングル能力検定」の5級と4級(一番下の級とその次の級)を受験したのであった。
正式結果はまだ出ていないものの、自己採点の結果を見る限り合格しているようでかなり嬉しい。
そして私は今日も韓国語の勉強だと言い訳しつつ韓ドラを楽しく見るのである。