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骨の歴史 ジョン・ルーリー 回想録

 まるでトリュフォーのデビュー作『大人は判ってくれない』のアントワーヌ・ドワネル(ジャン=ピエール・レオー)を見ている時のような気持ちにさせられる本だった。「アントワーヌ、それをやっちゃ絶対に良くないことが起こる」とハラハラしていると、案の定、最悪の事態になってしまうのだ。しかし、アントワーヌはまだ10代の子どもである。ここに描かれているのは、10代の時もあるが(まあ悪さばっかりしている)20代、30代、40代……と十分に大人であるはずのジョン・ルーリーなのだ。それなのに……。

 ラウンジ・リザーズというバンドのリーダーとして、また映画俳優として1980年代後半〜1990年代には世界中にファンがいた、そしてファッション・リーダー的な存在でもあったジョン・ルーリーだが、この本『The History of Bones John Lurie Memoir』を読めば失意の連続の人生であったことが分かる。ニューススタンドに自分の写真が表紙の雑誌が並んでいるのに、その前を通る本人はまったくの無一文、という時もあった。

 とにかく三度の食事のように、いやそれ以上にドラッグを摂取し、夜は手当り次第、女性とセックスをし、という暮らしが長い。この本の半分はドラッグ中毒の話だ。自分だけならまだいいのだが、長く同棲していたガールフレンドはもっとひどい中毒だ。読んでいて胸が苦しくなる。

 基本的に恨みつらみの本でもある。途中でこう書いている。「これを書いている2〜3年の間、『ジムを貶さないようにしよう』と自分に言い聞かせてきた。けど、結局それは不可能だった」。ジムとはジャームッシュのことだ。

 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を撮る前、ジャームッシュは別の作品に取り組んでいて、それが全然進んでなかった。そこに有名な話だが、ヴィム・ヴェンダースが『ことの次第』で余らせた高感度フィルム(感光剤の粒子が粗く、ザラザラの映像になる)をくれた。その時に、「こういうのどうだ?」と最初の30分のパートのアイデアを出したのはジョン・ルーリーその人だったという。後にこれが長編に展開する際も、ジャームッシュは判断が遅く、現場では「あー、あー、分からん」と連発するので、結局全体のセリフの半分を考えたのもジョンなのだと。そして、ジョンと共演の女性エスター・バリントは撮影の合間に、いつも「あー、あー、分からん」とジャームッシュの真似してふざけていたという。ジョンにとっては『ストレンジャー・ザン・パラダイス』は最初の撮影とその後のロケと、それぞれ2週間程度のお遊びみたいなもので、それきりになるはずだった。ところがこの映画はカンヌ映画祭でカメラドール=新人賞を受賞、ジャームッシュは一躍新進気鋭の作家としてスターダムにのし上がる。ジョンとエスター・バリントは「あの『あー、あー、分からん』のジムが『映画作家』だって!?」と呆れた。

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(↑昔住んでいた部屋に、フランスのメトロ用のデカいポスターを貼っていた。まあ、みんなやってたよね、こういうことを)

 制作中のどこかで、ジョンはジャームッシュからこの映画の売上の3%をもらう口約束をしていたらしい。ところが後で中をよく見ずにサインしてしまった契約書(「だってジムは俺を騙すようなヤツじゃないし」)にはその条項がなかったという。

  ちなみにジョンが書いた『ストレンジャー・ザン・パラダイス』の弦楽四重奏のサントラは、ヘロインの力を借りて、レストランの紙ナプキンにいきなり書きなぐったものだそうだ。それまで楽器を使わずに頭の中だけで作曲したこともなかったし、弦楽四重奏のための曲なんて書いたこともなかったのに。

 ジョンはご存知の通り、その後、トム・ウェイツらと『ダウン・バイ・ロー』に再び出演、ジャームッシュとはさらに『ミステリー・トレイン』の音楽でも関わっている。『ダウン・バイ・ロー』の役の話が来た時は、「またこんな役かよ! みんなが俺のことをこんな人間だと思うじゃねえか」と憤ったそうだが、僕がこの本を読む限り、ジョン・ルーリーという人は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』と『ダウン・バイ・ロー』に出てくるあの役まんまの人間である。

 ジャームッシュへのクレームはもうひとつある。だいぶ後、ジョンは自分で、『ダウン・バイ・ロー』で共演したロベルト・ベニーニ(彼とはその後もずいぶん仲良くしているようだ)が主演という前提で、白人のカウボーイがインディアンのおかしな村に迷い込む脚本を書いて、感想を聞こうとジャームッシュに送ったことがある。ところがナシのつぶて。やがて出資者のあても付き、自分でこの映画を撮ろうとしていた矢先、その出資者が「ジョン、これはダメだ」と言い出した。なんで?と聞くと、ジム・ジャームッシュが同じような設定の映画をジョニー・デップ主演で撮っているというのだ。ジョンがジャームッシュに問い正そうとしても彼は電話には決して出ない。ジョンは『デッドマン』を未だに見ていないので、どれだけ元の脚本と似ているかそうでないかは分からないが、しかし今の時代にそんな設定の映画を考えつく人間がそんなに沢山いるわけもないだろう、と考えている。

  それでも、彼は書く。「ジムには素晴らしいところが沢山ある。そしていろんな意味で彼は旅の仲間だ。俺たちにはみんな欠点がある。俺たちにはみんな欠点がある。俺たちにはみんな欠点がある。ある意味、それで全部説明がつく。俺たちみんな、どれほど、それぞれに固有な欠点があるか、ということで」。

 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』が受賞したのと同じ年、1984年のカンヌでパルムドール=最高賞を受賞したのはヴェンダースの『パリ、テキサス』である。ジョンは同じ年の最高賞と新人賞のどちらにも出演していたわけだ。もっとも『パリ、テキサス』でのジョンの役どころは、ナスターシャ・キンスキーが働く覗き小屋の用心棒?で、彼の姿を見られるシーンはそう多くはない。だが、当初の脚本にはもっと出番があったそうだ。設定では、あの時点でのキンスキーのボーイフレンドがジョンのやっている役だったので、主演のハリー・ディーン・スタントン(=トラヴィス……キンスキーの夫である)と殴り合いをする場面や、電話越しにキンスキーにハーモニカを吹いて聞かせる場面があったとのこと。後者は実際に撮影もされてジョンは気に入っていたが、最終版からはカットされたという(カンヌ上映時にはまだ残っていたそう)。

 ヴェンダースもひどくて笑、撮影隊がヒューストンに着く頃には(順撮りしていたのだろう)、製作資金が底をつき、ジョンのヒューストンまでの飛行機代も「後で払うから」と自腹を切らせた。そして用意されていた衣装のスーツがあまりにもひどいので、ジョンはやはり自腹で現地の洋服屋で紫のスーツを購入。その代金も「後で払うから」ということになったが、結局、飛行機代もスーツ代も一切払われていないらしい。その一方で、そのスーツを気に入ったヴェンダースは、当時アシスタントだったクレール・ドゥニに、自分用に2着、買いに行かせたという。

 なんて書いてたら終わりゃしない。映画関係では『最後の誘惑』のスコセッシ、『ブルー・イン・ザ・フェイス』のポール・オースター、『ワイルド・アット・ハート』のデヴィッド・リンチの話もあります(大体ネガティヴ)。音楽業界のことも、彼のアルバムを出したレーベル、EG,アイランド、フランスのveraBra、リザーズ最後のスタジオ・アルバム『Queens of All Ears』をいったんは出そうとして引っ込めたデヴィッド・バーンのルアカ・バップと、まあ全部、売上報告をごまかされたとか、ちゃんとマーケティングしてくれなかったとか、ジャケがひどいとか、ボロクソ言ってますが、それでも映画業界に巣食う悪辣なヤツら(特に『ゲット・ショーティー』他でかかわったバリー・ソネンフェルド一味)への怒りの方がまだ大きいみたい。

 本の内容をこんなにべらべら書いていいものなのだろうか。まあ、多分、邦訳は出ないと思うんだよな〜。ジョン・ルーリーの書いた本を読みたいという人はごく少数だろうし。しかし、もしこれを出したいという奇特な出版社があるのだったら、自分で翻訳をやってみたいという気持ちはある。英語力は不十分だし、会社の仕事もあるので、時間はたっぷりかかってしまうだろうけど。

 ああ、これを忘れてた。これも知ってる人は知ってると思うけど、ジョン・ルーリーはジャン=ミシェル・バスキアがまだ少年だった頃からの知り合いで(ジョンは1952年生まれ、バスキアは1960年生まれだから8歳違い)、一緒に住んでいたこともあった。その頃からバスキアは絵を描いていたし、ジョンもそうだった。ジョンはライム病という難病にかかって以来音楽活動を止め、今は画家である。アメリカのHBO MAXでは今年『ペインティング・ウィズ・ジョン』という番組が流れ(ファンの方ならご存知だろうが、その昔、彼は『フィッシング・ウィズ・ジョン』というフェイク・ドキュメンタリー番組を企画し、ジャームッシュ、トム・ウェイツ、ウィレム・デフォー、デニス・ホッパーなどと一緒に釣りに出かけていた。もっともこの番組も出資していた日本の会社が途中で倒れ、ジョンは経済的に大変なことになってしまう)、これが好評なので今第2シーズンも作られている。世の中のいろんなことを(そしておそらくドラッグも)バスキアに教えたのはジョンだったのだが(その具体的なことはあまり書かれていない。多分、それをしだすと恩を売るような「ヤラシイ」感じになると思ったのだろう)、ある時期からバスキアはアート界の寵児としてもてはやされるようになり、その頃からジョンに対する態度が非常に冷たいものになった。ウォーホールがいるようなパーティーで、公衆の面前でジョンをあざ笑うような場面まであった。かつての自分を一番知っている、まるで兄のようなジョンに対するライバル心のようなもの、一応、音楽や映画で世間の注目は浴びているジョンに対する「俺はあんたなんか乗り越えてる」という自負、そうしたものが彼を支配していたのだろう。『AKIRA』における金田と鉄雄のような関係である。すっかりメジャーになって大金持ちになったバスキアの部屋をジョンが訪ねると、ベッドの上にはデビュー前のマドンナがいたという。

 その一方で、ニューヨークで自分の大規模な個展が開かれる前日にバスキアはジョンを訪ねてきてメソメソと泣く。「どうしよう、明日、親父が来るんだ」と。おそらくとても厳格な父親で、息子が怪しげなアート界隈にいることも面白く思っていなかった、バスキアにとってはとてつもなく恐ろしい存在だったのだろう。突っ張ってはいるけれど、最後に頼りたくなるのはジョンだった。

 ある時、ジョンはバスキアに長い手紙を書いた。二人の間にいろんな良くないことはあったけれど、基本的に自分はバスキアのことを愛している、という内容だった。ところがバスキアに会っても彼はその手紙のことを口にしない。とうとうジョンが「手紙読んだか?」と聞くと、一言、「泣いた」と。

 最後にバスキアと会ったのはビデオショップで、バスキアは一言も発することなく、ただニコニコとジョンの方を見て笑っていたという。

 バスキアの葬儀にジョンは招かれなかったが、「知ったことか」と訪ねた。そこで、バスキアの一番恐れていた父親からは「お前はここにいていい人間ではない」と言われる。父親にしてみれば、ヘロインのオーバードーズで死んだジャン=ミシェルであるから、その責任の一端というか多くはジョンにある、と解釈していただろうし、ジョン自身も文章にしてはいないけれど、心のどこかでそう感じていたかもしれない。

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(↑1980年代後半、ジョンは日本のCMにも起用されていた。これは当時あった「クレマトップ」というコーヒーに入れるミルクの広告……「なんでこれにジョン?」って感じだけど。一緒に住んでた兄貴がどこかでもらってきた駅貼り用のB倍判のポスターの色校)

 この本を読んでいて、個人的に嬉しかったのは、移り変わりの激しかったラウンジ・リザーズのメンバーの出入りの理由が、ある程度把握できたことだった。そして、その中でも嬉しいのはラウンジ・リザーズの黄金時代(それはジョンが映画で有名になった時期とぴったり重なる……それによって自分の音楽をみんなにまともに聴いてもらえなかったというデメリットも大きかったと彼は考えている)をレコーディングで支えたオノ セイゲンさんが出てくるところである。日本でライヴ録音とミックスをしたアルバム『ビッグ・ハート』でのセイゲンさんの仕事ぶりを気に入ったジョンは、リザーズ2枚めのスタジオ・アルバム『ノー・ペイン・フォー・ケイクス』の録音とミックスのために彼をわざわざニューヨークのスタジオに呼び寄せる。 

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「ミックスは2日間でやった。オノ セイゲンは驚くべき腕前で全部をあっという間にやっつけ、期待していた以上のいい仕上がりとなった。ホテルに戻って「ビッグ・ハート」をヘッドフォンで大音量で鳴らす。自分の人生で最も幸せな瞬間の一つだ」

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「クイーンズのアストリアにあるスタジオに出かけ、アイランド・レコーズのために俺たちのセカンド・アルバムを録音する。そのためにエンジニアのオノ セイゲンに飛んできてもらった。彼は「アルバム」と書く時、いつも「アルマブ」と書いてしまう。俺はそれが気に入って、そのアルバムを「アルマブ」と呼ぼうかと思っていたくらいだ。しかし、結局『ノー・ペイン・フォー・ケイクス』とすることに決めた。彼らは俺が描いた「悪魔になったウィグリーおじさん」の絵を表紙に、カズが撮った写真を裏表紙に使った」

 僕がセイゲンさんの名前を意識し始めたのもまさに1980年代半ばのその頃、このリザーズの録音や、ジョー・ジャクソンの来日公演のビデオ(レーザーディスクで発売された……アメリカではDVDにもなっている)の録音のクレジットで見かけ、一体この名前は日本人なんだろうか?と訝しく思っていたのだった。音響エンジニアであると同時にミュージシャン、作曲家でもあるセイゲンさんはその後、リザーズのメンバーだったり元メンバーだったマーク・リボーやカーティス・フォークスやロイ・ネイサンソン、アート・リンゼイ、あるいはジョン・ゾーン周辺のビル・フリゼール、ジョーイ・バロンらとあっという間にネットワークを広げ、コム・デ・ギャルソンのショーのための音楽自身の作品を彼らと共に作るようになっていく。

 その当時のラウンジ・リザーズ唯一のミュージック・ビデオがある。音はそのセイゲンさんが録った東京でのライヴだ。彼らと契約したクリス・ブラックウェルのアイランド・レコードは、ミュージック・ビデオの予算として500ドルしか出さなかった。ジョンはツアー先のサルディーニャ島でこのビデオ(撮影は8mmフィルムだろう)を撮ったが、出発前にメンバーにこう言った。「お前ら、日本に行った時、ホテルで浴衣を盗んだだろう。あれをビデオで使うから持ってくるように」。メンバーは全員、「めっそうもない」と盗みを否定した。ジョンは万が一の時のために、余計に盗んでいた浴衣を2つほど用意していったが、メンバーはもちろん、全員、浴衣を持参していた。

 ジョンには1994年の来日時にインタビューすることが出来(その頃、僕は音楽誌を中心に書く、フリーランスのライターであった)、その時の会話から得たことは、当時の「CDジャーナル」誌上と、ビデオアーツという会社からリリースされた(他の会社から出た日本盤もあるので注意)、ラウンジ・リザーズの『ヴォイス・オブ・チャンク』、それからジョン・ルーリー・ナショナル・オーケストラという名前の3人組(笑)の『メン・ウィズ・スティックス』というアルバムのライナーノーツに書いた。その時の取材も、他の媒体のインタヴュアーが聞くのがファッションの話ばかりだったみたいで、僕は徹頭徹尾、音楽の話しか聞かなかったので、とても喜んでもらえたという感触がある。直後に見たリザーズのライヴの後も(彼はロビーでお客さんを見送っていた)、「自分が見たあらゆるコンサートの中で最高だったよ」とおべんちゃらでもなく伝えたら「自分が見たあらゆるコンサートの中で最高、か」とまんざらでもなさそうに復唱していた。その1年後くらいに、ナショナル・オーケストラで渋谷のクアトロに来た時もたまたまエレベーターで一緒に乗り合わせ(メンバーのビリー・マーティンもいた……彼は後にメデスキ、マーティン&ウッドをやるようになる)、「あれ、お前、名前なんだっけ?」と覚えていてくれたのも嬉しかった。

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 その、言わばジョン・ルーリー・カルチャーとでも言うべきサークルに、一ファンとして端っこの方で参加していた自分が、ここ10年近く、オノ セイゲンさんに映画Blu-rayやアニメーション作品の音声マスタリングをお願いしているというのもなんだか不思議なような気持ちもするし、当然の成り行きのような気もする。ジョンの人生だって、本を読んでみると、全部成り行きである。ラウンジ・リザーズだって、当時つるんでいた仲間たちと適当にバンドを組んで、ロバート・ゴードンのライブの前座を務めて(コカインのパワーを借りながら)、それが一夜にして大きな話題となって、キャリアがスタートしているのだ。人生はホント、出会いと成り行きである。

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