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不確実さを歩く

森美術館へ「世界がまわる音を聞く -パンデミック以降のウェルビーイング」を見にいく。

コロナウイルスにより変化してしまった日常をいかに生きるか?ということをテーマに各国の現代アーティストの作品を集めた展示。

小さな単純作業を積み重ねた作品や、個人の内面を社会に投影した作品が多くて、なんだか励まされるような感じがした。


多くの人がそうであるように私もやっぱり、このままどうなってしまうんだろう?とか、今までの暮らしは戻るのかな?戻らないのかな?だとしたらどうしたら良いんだろう、という戸惑いの中に2年半居る。
迷いを振り払うとか、受け入れるとか、何か考え方を変えられたらスッキリしたりもするのかな、と思うけど、そんなふうに上手いシフトチェンジも出来ていない。

でも、今日この展示を見たら「あ、答えは出そうとしなくてもいいんだ」と自然に思えた。

私個人にせよ、社会全体にせよ、ここまで来るのは単純じゃなかったのだ。大なり小なりいろんなことがあったり、なかったりしつつ日常は続いてきた。
ウイルスの脅威はあるけれど、今、ここまで来られたように、日常は人を次へと連れていく。何か大きな変化を起こしても起こさなくても。
小さな行為を積み重ねて作り出された作品達は、私にそんな風に感じさせてくれた。

一方、そのように自然には続いていかない、理不尽にも人生の一部や命そのものを失われる事を描いた作品も多く展示されていた。それがまた社会の問題やこれからの課題を提示しており、単純に希望だけの展示ではない深みを感じさせるものとなっていた。

とりわけ言葉の作品はというのは結構、やっぱり、直接的に“来る”ものがあった。これはゾーイ・レナードの作品「大統領が欲しい」。

別室ではアジア系アメリカ人による芸術運動やアクティビズムをリサーチした展示も。
地道に声を上げ、行動をすることの大きさと緻密さを感じ、興味深かった。が、その一方で、我が身を顧みて不勉強を恥じる部分も多く…個人的には大変勉強になる企画だった。


穏やかでも平和でもない中を歩くのは、当たり前のようでいて、決して当たり前ではない。当たり前にするための努力が日々なされているからそう在れているのだ。だからこそ、日常は尊い。暮らしに必要なのは、世界が完璧でない事を認めつつ「なるべく」良い方向を目指す、という按配なのかもしれない。
Yes/Noの間、白黒の間、「どっちでもない」という状態をある程度までは許容し、しかしそれが「どの程度まで」なのかは常に意識する。カウンターをどのようにどこに打つべきか精査する。
切実で簡単じゃない行為だ。しかしそうある事は、自分や他人を含めた“世界”に対する真摯さなんじゃないかと思う。


今日の絵

歩みの中で出会う

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