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声の行き先

安倍元総理の射殺事件のことから選挙を経て数日、ずっと悶々としている。いろんな理由があるけど、さて、どの点がしんどいのかな…と、その内訳を考えてみた。

原因のひとつは、事件そのものに対する単純な驚き。これはまあ、言わずもがな…。

もうひとつは、犯人も宗教2世問題という面では被害者だった、ということに対する複雑な気持ち。犯人自身の個人的な思いとか恨みだけではく、そこに至るまでの背景が重すぎて「どっか知らない場所で起きた、極悪人の犯罪者」で済ます気持ちにはなれない。
もちろん殺人に及んだことは許されないけど、彼一人を極悪人にしても解決にはならない、問題の深刻さを感じた。

そして自分の中で一番大きいのは、政治的思想の異なった人たちの断絶の深さを目の当たりにした事だ。
といってもネットやメディアを通しての意見でしかないし、ネットって極端で強い言葉を発信したい人だけが書き込んでいると私は思ってる。なので、皆がそういった、極端な意見なわけじゃない…というのは、意識してるんだけど。

ただ、思想の異なる人が,自論を展開するだけでなく、反対側をディスることで正当性を保っているという点はつらい。正論とか政治的な立ち位置の差だったらまだしも「バカ」とか「アホ」とかいうレベルの話だったりもする。それに対して、こうなっている原因はなんなんだろうと考えるけど、正体がなんであれ、ポシティブなものでないことは確かなわけで…。答えらしきものが見えたとしても、スッキリした気分にはならない。

私自身の政治的な思想ははっきりしているけど、だからといって、反対側にいる人を「自分と全く違う、間違えている、悪だ」と言い捨てられるかと言うと、そういう気持ちにもなれないのだ。人の感情の背景って、本当にいろいろだし、程度はどうあれ、人が亡くなってショックを受けるのは普通だと思うし…。

そんなふうに、他者との関係って、完全に理解したり共感はできなくても、こちらが努力すればある程度までなら話せるもんだと思っている。
…が、ネットで見る限りでは、その“ある程度”までの対話にすら辿り着けない人もかなりいるっぽいぞ…と感じてしまった。

議論のレベルの高低とか、「あいつら全然話になんね〜」という意味ではなくて、どうしてそうなる?というような、論拠がなんというか、よくわからないのだ。そしてまた、相手にとっては私の意見もそうなんだろうと思う。
思考の根っこ、問題点のスタートがそもそもかけ離れている。ドアがあれば、ノックして「少しお邪魔してもいいですか」って言えるけど、ドアそのものがどこにあるかよくわからない感じがある。

それだけでも充分なのに、カルト宗教の関係の話まで出てきたからさらに混乱してしまった。
もし一連の問題に洗脳が絡んでいるのなら、それはもう話が通じる/通じない以前の問題だ。洗脳の伝播が「正論ぽいもの」を作ってきた可能性があるとなれば、はて、自分が一生懸命理解しようとか正論で対話しようとか思ってきたのは何だったんだろう?

私はこれは、何が一番悪いと言う話ではなく、たくさんの問題がごっちゃになった話だと認識しています。Aという問題が炙り出されたところでBという問題が薄まることはない。AもBも問題。
だからこそ、どこまでが被害者でどこまでが加害者なのかわからないし、しかもそこには少しも愛とか希望がなく、あるのは種類の違う憎しみばかりなのだ。
それがきついんだと思う。

こう言う時、同じ気持ちの人と話すことでホッと出来ることもあるけど、今回の件は、自分と同じ意見の人と話したところで、他者への批判や憂いに終始してしまい、ハッピーな話にはなりづらい。
まあ、そりゃ、そうだよなあ…。

去年の今頃は、ちょうどオリンピック云々の時期だった。個人的には、コーネリアスが大炎上したことが完全にトラウマになっているので、そのフラッシュバックみたいな感じもあり…。なんだかなあ。

ただ、問題がなんであれ、自分も日本に暮らす日本人という当事者だ。
冷笑したり、外野気分になったりせず、また「このままで日本はどうなってしまうんだ」と“日本”のせいにもせず、主体性を持って考えるよう意識していたい。

しかし、ネットの言説って刺激的だから中毒になっちゃって危険だな〜。もっと刺激的な情報があるのでは?なんて思って延々と見てしまう。
この国と世界の先を考えるのは大事。憂いつつも、ちゃんと考える。でも夕飯の献立も考えるし、洗濯物のことも考える。生活。

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