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灌仏会 わたしが出会った仏のような人

あれは、20年以上前。わたしが30代半ばの頃だっただろうか。
霞ヶ関の通信会社で派遣の仕事をしていた頃のことだから、おそらく34歳くらいだったと思う。

霞ヶ関にあるその通信会社は新興企業で、派遣会社から派遣されたたくさんの非正規雇用の人が働いていた。仕事内容といえば、新規事業の問い合わせ窓口で、いわゆるコールセンターのオペレーターだ。

当時はバブル崩壊の失われた10年のさなか。若い人たちの失業率が高く、とにかく男女問わず、派遣で働く20代から30代の人が急増していた。派遣法が改正されて一般職にも派遣労働が広がっていった時代だった、かな。
わたしもその一端にいて、大量に集められてはふるいにかけられて人員が削られていく仕事場で、日々、失敗しないように緊張しながら仕事をしていたように思う。

研修期間が1週間くらいあって、その間の給料は出たが、適性なしとみなされた人は契約がすぐ打ち切られ、ある日姿を見せなくなった。次々と人が入れ替わる中、研修期間が同じで残っているメンバーの間では、いわば戦友のような友情が芽生えていた。休み時間に自分のこれまでの身の上を話したりもするようになっていった。

そのなかに、フジワラ君という男性がいた。丸坊主でひょろりと背が高く、いつもニコニコと笑っているような細長い目元をした、柔和な感じの20代後半男子で、同世代らしいタナカ君という金髪の男子といつも一緒にいた。派遣で同期で入ってから仲良くなったのだという。

金髪のタナカ君はとてもモテる人だった。バスケットボールを持ってきて、昼休みにビルの隣の駐車場で遊んでいる姿がよくみられた。まだ子どものようなやんちゃさと少年らしさが、人を惹きつけるのか、女子によく話しかけられていた。
でも、このタナカ君は、どうやら複雑な事情をもった人らしく、少年院に入っていたと噂されていた。「明日さ、裁判所に行かなくちゃならない」みたいなことをフジワラ君に言っていたりした。どうやらまだ小さい子どもがいて、奥さんとの離婚、特に親権でもめているという話だった。

フジワラ君は、言い寄ってくる女性たちから、タナカ君をガードしているような感じだった。タナカ君が女子たちから飲みに誘われると、
「タナカくんは結婚してるんだから、ダメだよ」
などと、タナカ君と女子たちをさりげなく引き離したりしていた。まるで悪の道に誘われそうな三蔵法師を守るおつきの人のようだった。

フジワラ君はあいかわらず毎日タナカ君のそばにずっといて、終始ニコニコ笑いながら仕事をしていた。
私はそんなフジワラ君に、何かの話のはずみにうっかり「三蔵法師に付き添っているカッパハゲの人みたいだね」と失言してしまったことがあった。彼は一瞬目を見張ったあと、
「僕は全然傷つかないし、いいんだけど、ほかの人にハゲとか、そういうことを言うのは、止めておいたほうがいいですよ~」などと笑いながら注意してくれた。

仏のような人だなと思った。普通なら怒るのがあたりまえだろう。
「ごめん。許してくれてありがとう。でもなんで、そんなに優しいの」と思わず聞くと、彼の生い立ちをなぜか話してくれた。

彼のお父さんは極道で、刑務所に入ったこともあるような人だったこと。そのお父さんは刑務所を出てホームレスになったとき、同じホームレスの人に命を助けられたことがきっかけで、ある日道を歩いているときに仏門に入ることを決意し、上野にあるドヤ街でお坊さんになったこと。彼は40代で亡くなったけれど、それまでに人助けに生きたこと。そして、今日4月8日は父親の命日で、灌仏会(かんぶつえ)という仏陀の誕生日でもあり、仏様に甘茶をかけて仏陀の誕生を祝うのだということ。
「花まつりとも、言うんすよ。なんでかは知らないけど」と彼は笑った。

フジワラ君は、言った。
「親父の人生、壮絶なもんだったんだと思うんすよね。だけど、親父はいつも言っていたんすよ。人の罪を許しなさいって。罪をもたない人間はいないからって」
そうしてまた、タカナ君のそばに戻っていった。

罪を犯さない人はいない。人はいろいろやらかしてしまうものだ。
そう言って、わたしの軽口に傷ついただろうに笑って許してくれたフジワラ君。自分がとても恥ずかしかった。
そしてふと思った。
フジワラ君はタカナ君にこれ以上、ややこしいことに巻き込まれてほしくないから、彼のそばを離れないのだろうか。何かの罪を犯した人に、これ以上苦しむようなことになってほしくない、そんな仏心からの行動なのか。

考えてみれば、派遣の仕事は明日をも知れない、地獄のような時間だった。そこで出会った仏のような人が、フジワラ君だった。時代が時代なら、もっとほかの生き方だってできたはずなのに、私が出会った若者たちは、不遇だった。そして当時の私も。


フジワラ君がどこでどうしているかを、わたしは知らない。
灌仏会の日に思う。私が出会った、忘れられない人。

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