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20/1260 『ああ分かった』 その時は来た、静かに。



 わたしは、過去を振り返るのが苦手だ。
いやおうなしに、過去に引っ張られているのに。

 と、そう思っていた。

昨夜、もう使わないであろうウェブ上の日記帳(非公開)を閉じようと、それまでの内容をすべて保存することにした。ダウンロードしたpdf書類のデザインがことの他見やすくて、誘われるように読んでいった。
  そこには、ダイエットと健康についてとか、片付け、ミニマルライフ、料理関係、何度もつけようとして挫折した家計簿、ファースティングの記録など、きっとこれからも変わらず関心を寄せ続けるであろう話題の他に、内面の苦悩やもがき、叫びが綴られていた。特に、IFS(内的家族システム)を知る前後は、アメリカで心の拠り所にしていた人の死に打ちのめされていて、どうにも孤独だったんだ。

 子どもの頃から家族との団欒が苦手、『思いやり』という言葉の質感が、温かくモゾモゾと不快に感じる、思い出や写真の整理なんてとんでもなくて、撮られた自分を見るのが辛かった。思いっきり笑ったつもりでも、他人から見えるのは凍った表情のみじめな自分。絶望的だ。昔、父に言われたように、『人間らしく』ならなければ。でもどうやったらいいのか、皆目見当がつかなかった。
 記憶が蘇る。10年前、父は私たち家族に看取られて死んだ。けれども二週間の看病中、最後まで、彼の瞳の中に私がしっかりと映ることはなかった。亡くなった日、晴れやかな気持ちになったのは、父らしい華やいだ春爛漫の陽気の日だったからだけではなくて、もうお互いに誤解することもないだろうという安堵もあったような気がする。肉体という縛りを離れて、無表情な堅苦しいわたしの内側を、これからはご先祖さまの一人としてすべて見通してくれるだろう、という希望を持てたからだ。

 話を日記に戻すと、IFSを学び始めてしばらくは、ひたすら自分の心の中の声を聞いていたようだ。気づいて欲しくて、見てもらいたくて、分かってもらいたくて生々しくもがき、嘆き、痛みに泣いている私のパーツ達が、日々、様々な姿形で登場していた。苦しみが、踊る様に生き生きと描かれいる。

 そんな感じで内没するように、当時の記録をほぼすべて読んでしまった。で、気がついたのは、今こうして振り返ることに、何も抵抗も感じない自分がいる。湧いてくるのは、当時の健気な自分(のパーツ達)への慈しみ。ただそれだけだった。

 『ああ。ここまで来たんだ。』

 癒しが進んでいる。記憶をたどることに恐れがなくなっている。

今朝。感謝祭の準備に買い物に出かけた。安売り専門のスーパーは、人々で賑わっている。裕福な街の地元のオーガニックマーケットとは違う客層だ。私はこの直接感というのか、覆い隠されたレイヤーの薄い感じにほっとする。大きなカートに手を置き、レジの列で待っている間、周りを眺めているときに、それは来た。

大きないのちの川。一人一人の背負っている人生。肉としての存在の重荷。着込んだ服や贅肉、くたびれた表情の内側にある光。スーパーの建物内のすべての人のいのちと、合流する先の大きな流れがそこにあった。

『ああ、なるほど。これか。』

人の中に息づくそれぞれの光に意識を向けると、店内の明るさが増す。いわゆるセルフエネルギーが、その人が意識していない根本のところで確かに流れているのが、わたしの知覚に入ってきていた。

私たちは、ただのいのちとして同じ空間にいた。そこには、恐れも批判もない。セルフ、いわゆる光と、パーツ達、いわゆる肉の存在が、鮮明に浮き上がり、店内を照らしていた。

自分の番になったので、レジの台にかごから出して並べた。気持ちのままにレジの白人女性に話しかけると、彼女が嬉しそうにした。人種とか、みかけとか、言葉とかを超えたやりとりをしていた。エネルギーの受け渡し的な。相変わらず、そこに恐れも批判もない。自由で広いつながりがあるだけ。

店を出て、車に乗り込むまで、その感覚は続いた。

わたしはIFSやキリストとの関係で慣れているから、「あ、来た。」という感じだけれども、そういうことを意識しないまま生きてきた人が突然経験したら、きっと人生変わるよな、と漠然と思う。エンライトメント(覚醒)として、驚きと興奮を持って語られるものなのだろう。

『分かる』という感覚は、もちろん自分自身の肉の枠に当てはめて、その範疇で分かる、のだけれども、それでも存在の隅々まで『分かる』のは、神聖な経験だ。時間も空間も神聖な広がりとして感じられる。自分の目の中の梁(マタイの福音書7:3)が、ほんの少しでも、小さく感じられたような、目が開く感覚。神さまはこうして、時々プレゼントをくださる。

 最近、周りから幸せだと見られることが増えて、私自身も心からそう思えている。自分の中と周りの小さな幸福の泡の中でくつろぎ、必要なときにはその外にも出られる勇気がある。こんな素晴らしい感覚がすべての人の中に内臓されているのだから、神様は私たちを愛してくださっているな、としみじみありがたい。あとは一人でも多くの人に、そこにあることに気づいてもらうだけ、なのだ。

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