【オリジナル小説】頑張らない日のココア
雨の中、傘の下で泣きながら歩く。
寂しい。さみしいなぁ、と。
ふと、そんな時。傘の向こう側が淡く光り輝いた。
傘を上げて前を見れば、可愛らしい一軒家が一つ。緑色の扉が開き、招くように揺れている。
こっちにおいで、と。
頬を伝った涙が、オレンジ色の光を反射する。
誘われるように、わたしは扉をくぐり抜けた。
そこは、木に囲まれた、森のようなカフェだった。
珈琲豆の香ばしい匂いが鼻をつく。少し先にカウンター席。左右にテーブル席。客はいなく、申し訳程度のBGMが空気に溶けている。
ゆっくりと傘を畳み、わたしはカウンターに近づいた。こつ、こつ。心地いい音が靴の下で鳴る。
「いらっしゃいませ」
いつの間にいたんだろう。カウンターの向こう側で、背の高い男性が淡く微笑んでいた。
ふわりとした黒髪に、大きめの瞳。大型犬のようにも見えるその瞳が、わたしを暖かく迎え入れている、ように見えた。
氷のように冷たくなっていた胸の内が、ほろほろと溶けていくような、そんな感覚にわたしはまた一粒、涙を零す。
誘われるようにカウンターに近づくと、男性――多分店員さん、はメニューをカウンターに置いた。暖かいお手拭きを差し出し、座ったわたしにメニューの一角を示す。
「本日のおすすめは、甘いココアになります。冷え切った身体を、ほかほかと温めてくれますよ」
「……じゃあ、それで」
涙のためか、声が掠れてしまう。すみません、と謝れば、いえ、と優しげな声が降ってきた。
「随分とお疲れのようですね。ゆっくりしていってください」
「っ……ありがとう、ございます……」
弱った心に優しい言葉は沁みる。また涙が出そうになり、ぐっと堪えた。泣いてばかりいたら、変な人だと思われる。
ココアが運ばれてくる間、じっとお店の空気に身を委ねていた。いつもならスマホを眺めたり、本を読んだりするのだけど、今はそんな気力もない。
ぼんやりとしているうちに、カウンターにココアが運ばれてきた。
「お待たせしました。本日限定の、頑張らない日のココアになります」
「頑張らない日のココア……?」
なんだか不思議な名前のココアに、店員さんを見上げてしまった。にっこりと微笑んだ彼は、ええ、と頷きを見せる。
「今日は……いえ、昨日はとても頑張ったのでしょう? だから今日は、頑張らない日です」
「昨日……」
誘われるように時計を見た。いつの間にか、日付が回って零時十四分になっていた。
今日は、頑張らない日……わたしは首を横にする。
「いえ、そう言うわけにはいきません。今日も仕事ですし、帰ったら洗濯にお風呂にご飯に……」
言っているうちに、身体が重くなってきた。ココアの匂いが妙に甘い。
スッと、何かが差し出された。見ると、深緑色のタオルだった。
「これに目にあてて」
「え?」
「ほら、こうして」
店員さんは遠慮なく、わたしの両手にタオルを置いて、わたしの目元へと持ってきた。今れるがままにわたしはタオルを目にあてる。暖かくて、淡いバニラの匂いがした。
「そのまま。今日頑張ったことを教えてください」
「今日、頑張ったこと」
「はい。まず、仕事に行くことを頑張りましたね?」
「…………はい」
何故だろう。優しくそう言われると、今日頑張ったこと……頑張ったとは思ってなかったけど、今日やり切ったことが、ぽろぽろと口から溢れてきた。
「……今日、自転車がパンクしてたんです。だから朝から、歩いて、一時間ぐらいかけて仕事に行きました」
「それは、朝から大変でしたね」
「はい……職場では、理不尽な上司がいて。嫌なことを押し付けられたけど、わたしがやった方が丸く治るから……我慢して、やりました」
「おお、偉いじゃないですか」
「っ……なのに、電話対応したお客さんには怒られて……それを報告しても、電話変わってもらえなくて……これは甘えですか?」
「そんなことありません。頼ることは、悪いことではないですよ」
「……今日、残業だったんです。いつもは一緒に残ってくれる人が、今日は早く帰らなきゃいけなくて、わたしが一人残って、鍵閉めて。でも自転車ないから、こんな時間なのに歩きで帰らなきゃで、しかも雨も降ってて……」
寒かった。独りが悲しかった。いつもは独りでも平気なのに。独りの方が気が楽なのに。今日の夜は、急激に寂しくなった。
言葉と共にまた涙は溢れ、タオルに染み込んでいく。暗闇に、吸い込まれそうになる。
「ううっ……ふ、うっ……」
涙が止まらない、嗚咽が漏れる。
穏やかな声が降ってくる。
「我慢しなくてもいいです。泣きたい時は、思いっきり泣いていいのですよ」
「っ……どうしてそんなに、優しくしてくれるんですか……」
甘い匂いの暗闇の中で訊くと、驚いたような吐息が聞こえてきて。彼は言った。
「優しくするのに、理由が必要ですか? 泣いている人を放っておけない、ただ、それだけですよ」
そんなふうに思える人は、それを行動に起こせる人は、多分そうそういないですよ……なんて言葉は、声にならずに消えた。
ただわたしは子供のように、タオルを目に押し当てて、泣きじゃくっていた。
久しぶりにいっぱいに泣くと、なにかで詰まっていた胸の辺りがすっきりと軽くなった気がした。
あんなに暖かかったタオルは涙でぐしょぐしょだ。店員さんは、今度はひんやり冷たいタオルを用意してくれた。それで優しく瞼を冷やす。
そうしながら、ようやく口にできるようなったココアは、ちょうどいい温度になっていた。
チョコレート色の表面に、白い生クリームが浮かんでいる。口に含むと、蕩けてしまいそうな甘さがわたしを癒してくれた。
「おいしいです」
「それならよかった」
「でもこれ、ただのココアですよね? どうして、頑張らない日のココアなんですか?」
そういえば、話が途中だったと、わたしは男性に問いかける。
男性は、やはり人懐っこい笑みを浮かべ、柔らかく答えた。
「まじないですよ。これを飲んだ日は、頑張らなくていいっていう、魔法をかけたくて。今つけました」
「魔法……」
「はい。子供みたいだって笑いますか?」
「いえっ、そんなことは……」
「ふふ、でも、子供みたいでもいいのです。子供みたいに、はしゃぎまわる日があったり、今日はやりたくないと駄々をこねる日があっても良いと、わたしは思うのです。だって、貴方みたいに疲れている人は、日々を頑張っている人だから。頑張らない日を作らないと、倒れてしまいますよ?」
男性の言葉の方が、魔法みたいだと思った。聞いていると、その通りだと思えてくる。
わたしは何を、頑張っていたのだろう。
こんなにも、毎日を頑張らないといけないと思っていたのは、何故だろう。
「誰しも、人生頑張らないといけない日はあると思います。けれど、毎日じゃなくてもいい。頑張った日と同じくらい、頑張らない日があってもいいのです。このココアは、頑張らないを教えてくれるココアです」
頑張らない日のココア。
それはとても甘く、暖かく。止まったはずの涙がまた、落ちそうになるくらいに、優しい匂いと、やさしい味がした。
飲み切った頃にはもう、入ってから一時間も経過していた。
久しぶりに、恥ずかしいくらいにゆっくりしてしまったからか、気分はふわふわしていた。
いろんな話を、聞いてもらった気がする。どれも取り留めない、くだらない愚痴で。でも店員さんは、うんうんと頷きながら聞いてくれた。
まだここにいたいけれど、そろそろ帰らなければ――腰を浮かす。
お礼を言ってココア代を支払うと、店員さんは紙袋を差し出してきた。
「これは?」
「頑張らない日のココア、十二袋です」
中を覗くと、彼の言った通り、『頑張らないココア』と書かれた袋が十二個入っていた。インスタントのココアだ。わたしは店員さんを見上げる。
「いいんですか?」
「はい。一ヶ月に一回は、飲んでください。気分によって生クリームやチョコ、アイスを入れてとびっきり甘くしたりして。その日は、何かを頑張ってはいけませんよ?」
「……じゃあ、今日も頑張っちゃいけないんですね?」
「もちろん。会社に行くのは構いませんが、会社で頑張ってはいけません」
「わかりました。頑張り……あ」
「ふふ。頑張らないを頑張ったら、本末転倒ですよ?」
「ですよね……。ちなみに、なんですけど。どうして頑張った日のココアじゃなくて、頑張らない日なんですか? 頑張った日のご褒美、じゃ駄目なんです?」
「駄目ではありませんが、ほら、頑張った日は、ココアを淹れることすらめんどくさくなるじゃないですか。だから、頑張らない日の朝に淹れるんです」
「あははっ、なるほど」
わたしは吹き出した。
確かにそうだ。くたくたに頑張った日は、お湯を沸かすことすらめんどくさい。
わたしの笑い声に釣られて、男性も笑った。
紙袋を受け取って、わたしは扉に目を向ける。緑の扉は、わたしを送り出すように、いつの間にか開いていた。
「では、帰ります。店員さん、今日はありがとうございました」
「とんでもない。疲れた時は、またいらしてくださいね?」
「はいっ」
頷いて、わたしは扉を潜る。
オレンジ色の暖かい光がなくなり、辺りは暗闇に包まれる。そこは、いつもの帰り道。けれど、いつもとは違う景色に見えた。
「あ……雨止んでる」
空を見上げると、薄い雲に、大きな月が見えた。今夜は満月だったようで、金の光が美しく輝いていた。
「帰ったら、とりあえず寝よ」
軽く化粧を落として。寝巻きにだけは着替えて。お風呂は朝に入ろう。会社は……まあ、起きてから考えるか。
今日は、頑張らない日なんだから。
そう思うと、会社を出た時よりも身体が軽くなったような気がした。
おしまい。
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