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その座標で待っててね

昨日の夜はベランダに台所用の小さな丸椅子を持ち出して、そこに座って氷水を飲みながらボーッとしていた。
夏用のリネンのパジャマの下だけを履いて、ぺらぺらのキャミソールの上に百回は洗濯して白く色褪せた、元は藤色だったバスローブを羽織っていた。
ここのところ寒暖差が激しすぎて今が暑いのかそれとも肌寒いのか判断できなくなってきていた。

私の住んでいる部屋はマンションの2階なんだけど、近所の一軒家の生け垣として植えられているモッコウバラが春の風に巻き上げられたのか、炒りたまご色の花びらが排水口のあたりに吹き寄せられてわずかに積もっていた。
この季節、モッコウバラはそこかしこに咲いている。地元にはなかった、上京してはじめて見るようになった花だ。
それともガーデナーの間でここ何年かの流行りなんだろうか?

室外機の上に置いたiPhoneが、ガガガと音を立てて振動する。
『薦めてくれたこの本のさ、今この部分を読んでるんだよ』
というメッセージ。こういうのがいちばん嬉しい。
すぐにはリアクションせずに、手元にもあるそれと同じ本の同じ箇所を読むことにした。
そうすることで時間と距離をすっ飛ばして彼女と、同じ座標上で遊んでいられるような気がしたから。
しばらく経って最初のメッセージに返信したけど、もう眠ってしまったようで返事はこなかった。

違う時間離れた場所で同じ本の同じ箇所を読むことは、メッセージをすぐに返したりその場で電話をかけて喋るよりも、場合によっては実際に会うよりも親密な行為であるように思う。
というよりそのときの私はなんとなくそうしたかった。そういうふうにしか示せない何かを示したかった。

たとえば私が小学4年生だったとします。
クラスでいちばん仲のいい友だちの身になにかつらいことがあって、その子は何週間にもわたって登校できなくなったとします。
私が親友として出来ることは、毎朝その子の家に迎えに行くことなのかな。そうじゃないと思う。
私がその子に出来る一番意味のあることは、自分も3日くらい学校に行かず友達とも親とも話さずに部屋に閉じ籠ってみること。
それができなくてもそれを、頭が痛くなるくらい真剣にリアルに想像してみることのような気がする。
同じ時間を過ごせなくても、同じ空間にいられなくても、同じ座標にいられるように努力するのが友だちだと私は思う。
もちろんなかなか出来ることじゃないし出来た試しもないけど、そう出来たら良いなと思ってる。

そもそも私たちはひとりひとり違う人間だから、どれだけ息を合わせて慎重に飛んだとしても、同じ場所に着地することはほとんどありえない。
それでも、万が一の確率で時間と空間を越えた座標で待ち合わせをすることができたとしたら私たちは、いつかずっと後になってもう一度その場所でまた会える気がする。

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