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今は昔!

トピック: 情報収集法
By あべりょう

編集/取材を生業としていたのは、20年も前のことになる。
オンライン検索はそこそこできたものの、我々世代が一線で活躍していた社会は、まだIT人間がそこまでいなかった。あるいは一般的に、コンピューターへの頭の切り替えができていなかったからか、社会がまだそこまでコンピューター化していなかった。

当時のあのどでかく、まるでドラムのようなスクリーン本体だったアップル·コンピューターの性能なのか、システムなのか、多分、両方だろうか、こちらが思った通りに機能してくれなかった。

もちろん最大の問題は、(今でもそうだが)コンピューターそのものの認識があまり深くなかった自分であって、一度に色々やろうとするとするからすぐにフリーズを起こしたりしたものだ。

当時の上司は、自分よりも年上だったから?タイピングでの打ち込みでさえ面倒がって、手書きの原稿用紙を使っていた。笑えたのはスクリーンはポストイットの添付場所と化していた。これは一種のアートだと、皆がからかった。

主流はやはり、当事者/社から送られてくるプリントされた情報が多く、封筒を開くのに結構な時間がかかり、そして机周りは紙の山だった。今なら完全にペーパーなどは一掃されているのかも知れないが、当時はコンピューター化への途上だったから、両方が机上に並んでいてその混雑ぶりは目を覆いたくなるほど。

その資料請求も、もちろん関係先の広報(PR )にいちいち電話し、返答を待つのが常だった。しかし何の不便さも感じず、当たり前と思ってさえいたが、若い社員からはああすれば、こうすれば、と教授されることが疎ましいと思いながらも、今になれば学習への貴重な第一歩になったことは間違いない。

殊に自分が働いていた地元邦字誌は、『NYタイムズ』や『デイリー·ニューズ』、そして当時のカルチャー系ナンバーワン週間紙の『ヴィレッジ·ヴォイス』(後の『ヴォイス』)など、その他諸々に比べれば吹けば飛ぶような存在だったから、後回しになったり忘れられることもしばしば。しかし平均して対応はフェアーだったと思う。

それでもアメリカや本国から様々な取材や問い合わせはあったし、当時は日系·日本人からは、ライフラインとも位置付けられていたことは、自負してもいいかも知れない。今更だが、、。

どんな小さなショップやレストランを取材しようにも、必ずPRを通さないと用を成さないのがアメリカ社会。どうにも時間がなく、個人用だからと言い訳して撮影したこともしばしば。

PRへのコンタクトで思い出すのが、ある年の新年特集号。サウスストリート·シーポートにあったフルトン·マーケットがブロンクスに移動すると聞いて思い立った。表紙写真も、威勢のいい魚取引き現場の空気を新年に送りたく、手当たり次第、市へコンタクトを取るもあちらの課、こちらの部所とたらい回し。

やっと辿り着いた挙句、何度も何度もこちらの身分を聞いたり、普通ではあり得ない異常なくらいの慎重さ。そしてOKが出たのはいいが、ファクスを送ってきて問題があったらこれを見せなさい、と思わせぶりな対応。当時は市場をマフィアが牛耳っているとの噂もあったので、緊張感がどっと襲ってきた。

確かに現場では2、3人にそれを見せる必要があったことと、「この辺の魚は撮影禁止」などのお達しがあって緊張したが、あのファクスを見せると「オケィ」って、”葵の御紋”かこのファクス。魚に関しては当時のハドソン川で獲れた魚の一種が取り扱い禁止だったので、そのせいかも知れない。

とにかく締切り2、3日前。写真を撮ってタイトルつけて印刷に回すまで、ほとんど時間がなかったが、とりあえず自称フォトグラファーを気取る部員の一人が撮影したが、あれだけの努力の甲斐もなく、個人的には残念な仕上がりだった。😂

この類の経験は数えきれない、アメリカのメディア事情と資料収集。現在はオンラインでほとんど入手可能なので、その辺の労力は半減したのではなかろうか。本当に今は昔の感じ一入。かと言って編集/取材業務は簡単になったとは思えない。編集は無から有を創る仕事、アイディアや処理法は、もちろん人間の頭脳と感覚だから。
(写真はお世話になった市立図書館フォトコレクション部)


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阿部良光: ミシシッピー州立大を経てNYに。地元邦字紙編集/記者からボディー·ワーカー。滞米44年め。汲々自適のほぼリタイアライフ。

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