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どこにいても異邦人

今回のテーマ: 私が選んだ棲家
By  萩原久代

長いこと東京の実家に住んでいた。自宅通勤の経済的メリットは大きく、四捨五入で30歳になっても独立できなかった。父は、「いつまでもうちにいればいいよ」と言っていた。母はちょっと心配顔だったが諦めていたようだ。何を諦めていたかというと、私の「結婚」と「家庭」、そして彼女の「孫」だろう。が、一切、口に出さなかった。心の中で心配しても、彼女は「子供の選ぶ道に口は出さない」主義を実践した。最近聞いたところ、自分の母親が反面教師になっていたそうだ。

会社勤めに定年まで「卒業」はない。私は、本当に定年までこの会社に勤めて実家に住むのか、20歳代後半になってぼちぼち悩み始めた。ある朝、満員電車の手すりにつかまって、窓に映った自分の顔を見た。ああ、私はこの手すりにつかまる生活をいつまでやるのか。いつまで続けたいのか。

妹は25歳で結婚をして家を出た。私はどうやって家をでればいいのか? 

私の育った街にある公園。小さい時はうちの庭の延長のように身近な存在だった。

故郷。生まれて育った街と家は自分で選べない。
私はそんな選べない場所で、平凡に、目立たず、のんびりと生きていた。そんな中でも、物心がついた頃から何故か自分が異邦人のような、しっくりこない感覚がどこかにあった。それが何か、自分でもわからなかった。ただ、その感覚を持ちながら生きることに特に不便はなかった。

そして、大学3年の時にアメリカに留学をして、私は本当の異邦人になった。
でも、アメリカで容姿の様々に違う人に囲まれて、違う言葉の海の中でアップアップしながら泳いでいたら、自分の異邦人の感覚がその環境にしっくりしていた。私は異邦人らしく堂々としていればいいからだった。異邦人の感覚で、心地良く生活していると思った。

長い間わからなかった正体がぼんやりと認識できるようになった。自分の国と故郷なのに自分が異邦人の感覚を持つのは、自分がちょっと異質だったからかもしれない。周りと同じ周波数で動いている実感がなかったからかもしれない。同質、同種、同調、同化、といった言葉が人間社会でどう機能するのかよく理解してなかったからかもしれない。

そういえば、家族や友人から、「あなたはマイペースね」と、褒められているのか、けなされているのか不明なコメントを時々もらったことを思い出した。母の思い出話の一つには、「あなたは幼稚園のお絵かきで、人の顔の色を肌色だけでなくて、赤や紫、茶色などで塗ったのよ。先生に注意されたら『いいの!』と言い張って先生を無視したって。ママの躾が悪いからだと先生にこっちが注意されたわ。」という嘆きがある。良い意味で私はマイペース、悪く言えば身勝手、合わせない奴だったのだろう。三つ子の魂百まで、か。

アメリカ人はみんなマイペースに私には見えた。肌の色だってみんな同じではない。幼稚園の頃から私はアメリカ仕様だったのか。
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悶々としていた20代後半の頃、「アメリカにもう一度行こう」と思った。大学院に行って、次のステップに役立てようと決断した。実家を出てニューヨークに向かった。そこで自分の棲家を見つけることになった。どっぷりと異文化に浸かった生活が始まった。

マンハッタンに住み始めて、日本に住んでいた年月を超えた。仕事探し、アパート探し、結婚、と年月は飛ぶように過ぎた。それなりに紆余曲折はあった。が、日本の職場を「卒業」して、日本の実家から巣立ち、「天然」な異邦人としてここに私なりの棲家を見つけられたのは幸運だ。


萩原久代
ニューヨーク市で1990年から2年間大学院に通い、1995年からマンハッタンに住む。長いサラリーマン生活を経て、調査や翻訳分野の仕事を中心にのんびりと自由業を続けている。2010年からニューヨークを本拠にしながらも、冬は暖かい香港、夏は涼しい欧州で過ごす渡り鳥の生活をしている。

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