案外「気にしすぎ」が誰かの明日に繋がっているのかもしれない。
空気を読みすぎる故にちょっとした人間関係に疲れやすかったり、些細な仕草や言動に一喜一憂したり。
よっぽど鈍感な人は違うのかもしれないけど、多かれ少なかれそんな気苦労と共に私たちは生活を送っています。
個人主義が加速する時代のせいなのか、情報過多による無数の憶測が得られるせいなのか、はたまた昔からそうなのか。よくわかりません。
生きているとこの世が地獄みたいに思えるのような夜がある。
けど、そんな時に何気なく向けられた親切に簡単に気持ちが救われたりする。それは、久しぶりに来た古い友人からのメールだったり、コンビニ店員が何も言わず付けてくれるおしぼりだったり、職場の同僚が気まぐれでくれるお菓子だったり。
こういう些細なことで「明日も生きていこうか」そんな気持ちになるんですね。
人間関係において、思わず使ってしまうその場しのぎの花火のような明るさや共感。そんなものすら、気がついたら誰かの救いになっているのかもしれない。
だから、他人の言動を気にしすぎてしまうことも案外世の中の役に立っているんだろうと思うのです。
それは大袈裟ではなく、誰かの明日につながるものだったりする。
そんなことを考えた今日でした。
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