見出し画像

"逆"パノプティコン

パノプティコン
〘 名詞 〙 ( [英語] panopticon ) 中央の高い監視塔から監獄のすべての部分が見えるように造られた円形の刑務所施設。イギリスの思想家ベンサムの考案。ミシェル=フーコーが近代管理システムの起源として紹介したことで知られる。

精選版 日本国語大辞典より

今朝、自分が存在しなくとも地球は廻り続けて、周りの人たちも生き続けるという現実に打ちのめされそうになった。

自分が大切に思っている人には、大抵自分より大切な人がいる。
最近の心情を表すなら、まず私が円の中央に立っていて、私の好きな人たちが周りを取り囲んでいて。私からその人たちの姿を見ることはできる。
けれども、私を囲んでいる人たちは、円の外側にいる私より大切な人のことを見ているから、私からは背中しか見えなくて、視線が交わることはない。

最近そんな気持ちなんだよね、って友だちに言ったら、
「"逆"パノプティコンだね」
って言われた。
パノプティコンが何なのかわからなくて調べて画像を見てみたら、なるほど、私の心象風景はまさに「"逆"パノプティコン」だ、とものすごく納得した。 

私が1番大切に思っている人が、同様に私のことを1番大切に思っていることなんて、これから起こりうるんだろうか。
自分が誰かから必要とされているという実感を、私は一生持つことができないでいる気がする。
私にパノプティコンを教えてくれた友達は、私のことを好きだと言ってくれる。けれども、その友達の言葉を、私は心の底から信じることができなくて。それは彼女がどうとかいう問題ではなく、私がただ信じることができないだけ。誰に好きだと言われても、それはきっと一時的な感情に過ぎなくて、いつかはみんな何かのきっかけでふと目を覚まして「あれ、(私)ってこんなやつだったっけ」って、私と友達でいる価値がないことに気づいていなくなってしまうのではないか。そんな恐怖が昔からずっとずっと、うっすらと残り続けて消えない。

本当は1番なんてありえない。
人と人の関係って、順位をつけられるようなものではない。
頭ではわかっているのだけど。
いつまでもそういう幼稚な発想しかできない自分が嫌でたまらない。

私がいなくなったとしても、みんなは生活を続けていく。そんなことは知っているし、そういうものだってわかっているけど、悲しい。理解はできるけど、感情は追いつかない。

「私なんて」と卑屈になって、困った友達に必死に「そんなことない。必要だよ」と言わせて、そういうことを繰り返してしまう。本当はいなくなってほしくないのに、自分から友達を突き放してしまうようなことをたまにしてしまう。
人からの言葉や評価でしか自分の存在価値を確かめられないんだな、私は。

この先、生きていても、今までより楽しいことが起こる気がしない。
自分がなにかができる人間だと思えない。日常のあらゆる場面で、自分の無力さを痛感するばかり。やりたいことはたくさんある。けどそれを実現できるとは、そういうことができる自分だとは思っていない。
すごく腐った考え方だということはとっくに自覚済みだから、なんの励ましもアドバイスも聞きたくない。そういう考えになってしまうから、自分には価値がないと思ってしまう。

これから先、今までよりも楽しい未来がないのだとしたらもう、ある程度人生を楽しんでそれなりに幸せな今、消えてしまうのがいちばん良いのではないか、という結論にいつも落ち着く。
いつか必ず死ぬんだったらなおさらそう思う。若くて健康で、家族も友達も元気で、生きていてほしい人たちの死を経験していない今のうちに、と思う。今この瞬間を冷凍保存する、みたいな感覚。

だから、いつだって消えたい、自分の存在を無かったことにしたいと常に思っている。マックのポテト食べたいなあ、くらいの軽さで、時期によってはそういうことばっかり考えている。
今抱えている悩み、これから発生しうる悩み、それらを思うたびに、生きようという気力がなくなってしまう。一瞬でも力を抜いたら地面にへたり込んでしまいそうになる時がある。

「この人、消えようとしてる?」と不安な気持ちにさせているかもしれないけれど、消えることは絶対にないから安心してほしい。
私には自分で世を去ることを選ぶ勇気はないし、そもそも死にたいと思っているうちは死ねないんだろうなと思う。きっと、死んでしまう時って大抵、生きたいと思っている時なのだと思う。
だから、消えたいは消えたいけど(死にたい、よりは消えたいの方がニュアンスが近い)、消えることができるとは到底思っていない。消えたいなあとライトに思いながら生き続けなければいけないんだろうと、覚悟もしている。

生きていて楽しいことはたくさんある。
絵を描いてる時も、本読んでる時も、好きな音楽聴いてる時も、パノプティコンの友達と出かける時も、好きな歌手のライブも、おいしいご飯食べてる時も、すごく楽しい。
でも、だから生きよう、とはあまりならない。
死ぬまで生きないといけないから、死ぬまでの時間、何かしていなければいけないから。何かするんなら、苦しいよりは楽しい方がいいかな。だから、楽しいと思えることをしよう、そういう発想。
ぜんぶ死ぬまでの暇つぶし。
だからちゃんと毎日同じような時間に起きて、弁当詰めて、最寄り駅まで歩いて、電車に乗って会社にも行くし、会社に着いたら真面目に仕事もするし、友だちと会う約束もするし、約束をしたら手帳にちゃんと書いておく。

今やっていることが楽しくても、いつだって消えたいなと思ってる。
死にたくない、ってどんな気持ちなんだろう。だって結局は死ぬことになるのに。死んだら何もかも無くなるのに。死んだことや、死んだときの感情、周りの人の反応、なにもかも本人にはわからないのに。

ただ、私が唯一心配しているのは、死んだら何もかも無くなる、と勝手に思っているけれど、もしも「何もかも無くなる」わけじゃなかったらどうしようということ。今生きている人生は1stステージとかに過ぎなくて、死んでも1stステージのデータがセーブされた状態で、2ndステージに進まなきゃいけなかったりしたらどうしよう。みんな本当はマリオなのでしたって。そんなの、いくらなんでも辛すぎる。

ああ、となるといちばん快適な状態は眠っていることなのかもしれない。生きている状態で死んでいられる、いわばポーズ画面。
眠っていたい、タオルケットかぶって丸まってひたすらひたすら。
でもつらいのは、自分が眠っている間も時間は進み続けるということ。永遠に、本当に永遠に眠り続けることができるのならばいいけれど、いずれ目覚めることになるのなら、眠りから覚めた時に自分だけ置いていかれることになる、それはそれでいやなんだよな。

と考えると、やっぱりいちばんいいのはみんなで眠っている状態なのかも。みんなで一斉に眠りについて、そのまま地球が破滅するまで眠り続ける。
(地球が破滅したらみんなで一緒に2ndステージに行ってしまうという懸念はあるけど)
みんなでせーので眠ろうよ、なんて。

そんなことを朝の満員電車で考えていた、月曜の朝なのにね。
最近はそういうモードに入ってしまったのです。
抜けたい、いつか抜けるものなのだと思いたい。

この記事が参加している募集

恐れ入ります。