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日曜20時の雑記

近況をつらつらと。

小さなイルカのぬいぐるみをポケットに忍ばせて通勤した日があった。
誰もいないオフィスの廊下とか、隣の先輩が離席してる時とか、こっそりポケットに手を入れてモチモチと弄んだり、人がいない時は取り出して頭を撫でたりして、なかなか愉快だった。
帰宅して、ポケットから取り出すと、黄緑色のイルカはちょっとだけつぶれて小さくなっていて、「疲れたよね〜」なんて声をかけて、元の姿に形を整えるなどした。
きっとまたやると思う。

この間、2024年上半期No.1と言っても過言ではないカレーに出会ってしまった。
あの味を再現したくて、カレーの材料を買ってきたけれど、結局作っていない。
私の人生、そんなことの繰り返しだな。

最近、同居しているおばあちゃんの耳が本当に遠い。
何を言っても第一声「よく聞こえない」で返される。同じ内容を2、3回(クレッシェンドで)言わないと伝わらない。
本当にひどい孫だと思うが、それがストレスで会話をするのが面倒くさいと思うようになってしまった。
老いには逆らえない、耳が遠いのはおばあちゃんのせいではない、本当は、おばあちゃんの耳以外のほぼ全ての部位が健康であることを喜び、気遣うべき、優しく接するべき。頭ではわかっているけど、できない。
できない自分が、本当に嫌。

自分の部屋がない。
自分だけの部屋というものを私は生まれてこの方持ったことがない。

今私が1番欲しいもの、リアルに「自分の部屋」かもしれない。

聞こえてくる音をコントロールしたい。
今の生活では、聞きたくない時にラジオやテレビの音が聞こえてきてしまう。それがどうでもいいワイドショーとかだったりすると本当に最悪。
部屋がないと人と電話もできない。家族が寝静まるのを待って2階の誰もいないリビングで電話をかけるか、近所の公園にいくかない。

誰も入ってくる恐れがない、本当に私だけの空間が欲しい。
最近の切実な願い。
自分の部屋があるって、当たり前のことではないんですよ。

昨晩、寝る前に軽度のアナフィラキシーのような症状が出た。
気管が狭まった感じがしてやや息苦しくて、息が8割くらいしか吸えなくて、吸ったり吐いたりすると「ヒューヒュー」と音が鳴るような感じで、口の中がさくらんぼとか桃を食べたときみたいに少し痒くて、虫刺されか蕁麻疹かよくわからない発疹が7箇所くらいにあらわれて。
そんなこと初めてだったから、あれがアナフィラキシーかどうかも未だにわからない。でも食事をしたのはその症状がでる4時間くらい前で、寝て起きたら治っていた。
何だったんだろう。

最近は、自分はどうやら「カフェイン過敏症」らしいということもわかってきて。
緑茶や紅茶くらいなら問題ないのだけど、コーヒーを飲むと、何か物を持った時に手が少し震えたり、頭がぼーっとして横になりたくなったり、お腹がゆるくなったりしてしまう。
コーヒー、大好きだったのに。特に深煎りの濃いやつ。ずっしり来るやつ。飲みたいけど、飲んだら飲んだで辛いから、飲めなくて悲しい。

アナフィラキシーもそうだけど、こうやって年を重ねるになるにつれてどんどん食べられないものが増えていくのかな。
食べられないときはある日突然訪れて、食べられなくなる時が来るのに備えて食べておく、みたいなこともできないから困る。
これからは「デカフェ」にお世話になることになりそう。自分には縁のないものだと思っていたよ、デカフェ。

休みの日はうれしい。
でも最近、休みの日に何をしたらいいのかわからない。映画をみようか、本を読もうか、絵を描こうか、とか色々選択肢を思い浮かべても、どれもしっくりこない。何に対してもやる気が起きない。「やろう」と思えない。何もしたくない、とも少し違う。何かしたいという気持ちはあるが、それを実行に移す気力がないというか。
人と会う約束とか、病院の予約とかでもないと、何をしたらいいのか本当にわからなくて、結局本当に何もしない。何もできずにただ1日が終わる。1日が終わるというか、1日が通り過ぎるという感覚の方が近い。

やりたいことはあるのに、どうして何一つできないんだろう、やりたいというだけで実際には何もしないんだろう、というのがここ数年の悩み。
あー、なんで毎週末わたしって何にもせずに過ごしてしまうんだろう、せっかくの休日なのに、何もできなかったという感情で月曜日を迎えてしまう、どうしてこうなっちゃうんだろう、ということばかり考えている。明日から仕事という現実よりも、休日に何もできなかったダメージの方が圧倒的に多くて、わたしにとって休日って一体なに? 何もできない自分を自覚するだけの日? 英気を養う日のはずなのに、もはや自分にとってマイナスに作用してるの、本当にわけがわからない。
仕事はやるべきことが決まっている、これなら休日よりもやるべきことをやって「今日もよく働いた〜」となれる仕事の日の方がマシかもしれない、とまで思ってしまう。

そう悶々としていた昨晩、読んだある記事に「やらないと思っているからこそ、やりたいと思う」「やりたいことは『やりたい』と考える前にすでにやっている」という旨のことが書いてあって、わりと衝撃を受けた。
つまり、自分にはできない、自分はやらない、という気持ちがあるからこそ「やりたい」という願望が生まれるということ。やっている人は、やりたいなとか思う以前にもう身体が動いているよ、ということ。

詰んでる、と思った。
「やりたいこと」はたくさんある。でも「やりたいこと」が「やらないこと」なのだとしたら、その上で、今やっていることが何にもないのだとしたら、「何かやりたい」という願望はどうしたら叶えられるのか。そして今の自分は何をすればいいのか。どうしたら「何かしている自分」になるのか。

・やりたいことは、やらないこと
・やりたいことをやっている人は、やりたいと思う前にすでにやっている

では
・今やっていることがない
・やりたいこと(=やらないこと)だけは一丁前にある
わたしは、結局何もしない空っぽの箱のままなのか?ということ

今日もやりたいと思っていたことの半分もできずに終わった。
午後なんて本当に何にもしていない。本当に、何にも。
何にもしてないって、何かはしてるでしょうよと思いますよね、わたしも思う。でも本当に何もしていない。何したかって言われて答えられないもん。風呂入った、米炊いた、くらい。
そもそもわたしが実際以上に自分は「できるはず」だと思ってしまっているのがいけないのかも。
元々できない人間なのだと認知していれば、できたことに目を向けられるようになるのかな。

今日も今日とて、1日が通り過ぎていく。

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