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科学とは何か

十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない
アーサー・C・クラーク

世界について永久に理解できないことは、世界が理解できるということだ
アルバート・アインシュタイン

私はパートで働いている子持ちの主婦という、わりと一般的な生活をしている中年女性で、学歴が高いわけでも前職が研究者なわけでもないが、この世界の探求に興味を持っている。
世界の探求といっても私の能力や履歴ではやれることはごくごく限られているが、若い頃からいろいろと試行錯誤(=迷走)してきた結果、今はできるかぎり科学的な方法論に沿ったかたちで世界を知りたいと思うようになった。

しかし、人間社会をグローバルにながめてみると、最近はあちこちでこの《科学的方法論》というものへの懐疑が広がっているように思える。
科学の信奉者の一人として、科学とは何か、そしてなぜ人々にとって科学が信じられなくなっているのかを考えてみたい。

一般人にとって科学とはまず第一に学校で習う理科(生物・化学・物理)の内容ではないかと思う。
我々は学校で習うそれを基本的には《確定された事実の知識》として受け取っていると思う。すくなくとも私はそうだったと思う。

しかし、私の場合20代になると現象学や論理学の一般向けの本を読むようになり、その過程で『科学的事実も人間の認知のフィルターを通して形成されたものである』という考えかたを知ることになった。
トマス・クーンの《パラダイム》という概念を知ったのもその頃だ。
※この言葉は科学を相対主義的にとらえるものとして一部で批判されているがこの記事ではその詳細にはふれず、一般的な使われかたでのそれを紹介する。

《パラダイム》の例としてよく挙げられるのが天動説と地動説である。
現代の我々からすると地球が太陽のまわりを回っているのはごくあたりまえの事実だと思えるが、過去には人々は天動説を信じていた。過去の人々がキリスト教などの思想にとらわれてまちがった思いこみをしていたという側面もたしかにあるが、パラダイム論で重要なのは『天動説で星々の動きを説明してもほとんど何も矛盾がなかった』という事である。
もしそれまでの天動説で説明できない観測データが出てきたとしても、それまでの法則を修正すればすべて天動説で説明できたし、それは法則を強化するものだと思われていた。
その後、コペルニクスやガリレオの登場で天動説から地動説に人々の考えかたが変わり、ニュートン力学が登場して現代では星々は質量に応じた重力の影響でその動きが決まってくるという考えかたが支持されている。
パラダイム論では、天動説も地動説も世界の観測的事実を説明する枠組みであるが、それがどれだけ矛盾なくあらゆる観測データを説明できるかによって優劣がつけられ、劣っているとみなされた枠組みはより優れた枠組みにとってかわられる。
天動説・地動説のような説明の枠組みがパラダイムで、枠組みの交代は『パラダイム・シフト』という。このような営みとして《科学》があるという考えかたである。

※で書いたように科学にたいするこのような考えかたは《科学≒真実》派から批判されている。《科学≒真実》派はそのものズバリ、科学的知識が人間の認知を超えた《真実》と同義とまではいかないが近いものであると考える。
この《科学≒真実》派の主張には重要な根拠がある。

歴史的に科学は観測したデータを一定のパターン化して説明する方法として、観測データを共有するための単位やパターンをうまく説明するための数学とともに発展してきた。そして科学を使って観測可能な出来事の予測をすると、未来のどこか、またはある特定の状況でその予測が観測できるのだ。そして我々はその予測を利用してある程度は世界をコントロールすることもできるようになってきた。

表現を変えると、科学という魔法をつかえばこの世界を(ある程度は)自分の好きなようにあやつれるのだ。

我々はすでにそのような魔法道具を日々駆使して生活している。
電子レンジに冷凍食品を入れてチンして解凍できるし、車をあやつって高速移動ができる。
電子レンジは電磁気学をもとにしているし、車は熱力学、物理学、情報学などの複合機械だ。
天動説をもとにして計画・実行していたら人類は月に行けなかっただろうが、地動説の考え方をすすめた結果、人間が月に立ち火星に探査機を走らせ、木星や土星にまで近づくことができた。

つまり、世界にはなんらかの法則性(真実)があって、人間がその法則性をなるべく正確に知ろうとするのが《科学》である。なので、《科学》は基本的にはより真実に近づいていくのであって、逆戻りするとか、枠組みが変わるとかいうものではない。
たぶん、科学の力を信じている人たちにはこの考えかたのほうが人気があると思う。

このような《科学》についての対立?する考えかたの一例になる記事が以下にある。

「意識は、そして科学は“幻想”なの?」大栗博司×池谷裕二、激論!

私が思うには、このような考えかたの対立は、実際は対立する概念ではない。

世界は我々の妄想ではなくちゃんと存在していて、我々の意図のおよばない法則性を持っている。
我々は、我々が認知できるやりかたで世界の法則性を探る。我々の認知は説明の枠組みを必要としていて、その枠組みは変わることがある。
この2つの考えかたは普通に両立すると私は思う。
ただし、上の記事で池谷先生が言っているように、脳科学的に考えるとそれを両立させるのはそれほど単純ではないし、科学についてそこまで深く考えると、アインシュタインが言うように我々が科学によって世界を知り魔法のように世界をあやつれるのは、不思議で不気味なことなのかもしれない。

私のまわりはぜんぶ世界で、私はあたりまえに世界のなかで生活しているのに、よく考えると私は世界について何も知らない。知ってると思っていることでもよく考えてみると、その本質についてぜんぜんなにもわかっていないことが多いのだ。

科学とは何か、はっきりとはわからないが、それでも世界を知りたいと思うときにいちばんアテになる方法だと私は思う。
そしてなによりも科学の枠組みで世界を見ると世界がとても広く深く見える(ような気がする)ので、私はそれがとても好きだ。

でも、もしかしたら「追求すればするほど広く深くなっていく」科学のそのような特性が、現代のグローバルな情報社会によって大勢の人々にもうすうす理解されているからこそ、それから逃れようとする動きもあるのではないかと私は思う。我々の認知能力には多様性があり、すべてのヒトの認知能力は(この広大な世界にたいして)ごく限定的である。

《オマケ》

真面目に研究されている一般的には不思議な科学理論3選(すべてウィキペディア)
①マルチバース

②ホログラフィ理論

③DNAコンピュータ

※あくまで研究者ではない一般人が考えただけの文章です。
※本文と引用した記事・書籍・学説等の正しさを保証するものではありません。

タイトル画像:"Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic" by Stable Diffusion Online

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