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いまわしい軟体

 水族館の水槽を譲り受けたのは完全な気まぐれだった。といってもたいして大きなものではない。水槽本体自体は金魚鉢より一回り上程度のもので、付属しているコンプレッサーやら濾過器やら何やらのほうがもっとかさばった。電源を接続し、砂利を洗い、一緒にもらってきた藻をぶち込んで、水が落ち着いてから飼っているエンゼルフィッシュのつがいを引っ越すつもりだった。

 翌日におれは悪臭と冷気で目を覚ました。水の音がゴボゴボ言っており、臭いヘドロ色の液体が太い線を作って俺の部屋を通り抜けていた。線は俺の布団をまたぎ越しており、始点は便所だった。慌てて布団をかっぱいだが、床までじっとりと臭い液で濡れていた。吐きそうになりながら着ているものをすべて脱ぎ散らかし、それからちらっとヘドロ液の終点を見た。終点はおれが昨日もらってきた水槽で、ドロドロに汚れた水の中で何かがぎゅっと縮こまるようにしているのが見えた。人間の肌そっくりのピンク色の何かで、とても魚には見えない。そのピンク色は妙にすべらかで、骨なしのようなぐにゃっとした動きをしていた。おれが近づくと、それがぱちっと目を開いておれを見た。人間の目だった。それも、どこかで見たことがある茶色くてきれいな目だった。

「ねえ」

 水槽から悪臭とともに若い女の声がした。おれは近づきかけたのをやめて、後ろへと飛び退いた。声には聞き覚えがあったが思い出せなかった。

「あのさ、ちんちんしまってくれない? すっごい見苦しいんだけど」

「喋れるんだ」

 おれはわかりきった感想を言った。じわじわと頭の中で神経が繋がる感じがあった。この状況に関わらない高慢な感じの女の声。そうだ、高校時代に聞いたことがあったんだ。

「お前……吉岡……吉岡真姫なのか?」

 おれはピンクのグニャグニャに話しかけた。それは、そうだよ、と、思い出と同じように、ただゴボゴボ音を追加しながら答えた。

【続く】

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