読書リハビリ
コロナ禍による変化のひとつに通勤しなくなったことがあります。
それに伴い通勤電車で読書をしていたので、読書の機会が激減していったのです。
一度読まなくなると本当に読書量は減っていくものです。
でも、欲求自体は減っていくわけでもないので、読みたい本や買ったけど読んでいない本は増えていくわけで。
そんななか溜まりきった文學界のスキャニングを開始しました。
きっかけの一つに平民金子があります。
整理しようかと思い何気なく目を通した文學界に掲載されていたエッセイ、カツカレーの話を読んでみたところ非常に興味深く、色々と考えさせられるところもあり、これは遡って読みたいと思ったからです。
せっかくなので古い文學界をすべてスキャニングしてやろうと。
初めから電子版が売っていればそれが一番なのですが。
スキャニングがひと段落したら、さっそく平民金子のエッセイを続けざまに読みます。
ちょうどいい文量。読書リハビリの開始です。
めしとまち 平民金子
「めしとまち」は文學界2021年05月号から連載が開始され、今のところ単行本化はされていません。
神戸に住む著者がまちとめし、時々子育てについて綴ります。
読んでいると、「ああ」とか「そう」という同意があり、自分の体験を思い出したり。こんな文章が書きたかったし、読みたかったと、心をグッと掴まれた気がします。
これまでの全編どれも魅力的なのですが、特に好きなものをいくつかピックアップしてみます。
「ぬか漬けハンバーグ」文學界2021年05月号
まずは記念すべき第1回目
ハンバーガーに挟むのはピクルスではなく、よく漬かったぬか漬けなのではないかという提案。
幼い子供がピクルスを抜くのは定番の話だが、その話と混ざり合うように出てくる、昔の光景。子供あるあるを思い起こしつつ、観たことはない列車が街を縫うように走る。
最高の展開、最高のしめだった。
まじりあう音と記憶と生活の匂い、こういうのが読みたかった。
「うんこ、はなくそ」文學会2021年9月号
コロナ禍、熱を出して寝込む子供の傍で高山なおみの絵本を読む。
子供の看病をしながらも、何もすることがなく物思いに耽る話。
コロナ禍の話、東日本大震災の時のように「あの時どうしてた」話の一コマ、”それは今しかない濃密で贅沢な時間だとも思える”は同感、コロナ禍で良かったことの一つであろう。
娘は物心ついた頃には父親が家で仕事をしているし、学校から帰ってくれば父親が出迎えている、それが彼女の普通なのだ。
おかげで申し込んでいた学童保育にはほぼ行くことはなかった。
「しましまうまうまバー」文學界2021年10月号
首筋にカメムシから、亡くなった祖母が身を変えてやってきたのではと、祖母と過ごした日々を思い出す話。
亡くなった祖母との話、祖母との距離がかなり近かったことを感じる。自分にはそこまでの親類はいないな、人は死ぬとき何を口にするのだろうか。
祖母は死の前にぼくのことをふと考えてくれたりしたのだろうか。
いや、していないだろうな。
ぼくはそこまで人と深い付き合いをしていないだろう。
「鮪にキャベツ」文學界2021年12月号
詩人・山之口貘の話から、マグロのツマがキャベツだった店の話。
小樽のバーで高田渡とニアミスするも、本人に会うのは違うと結局会わずに終わる。
そして山之口貘と高田渡について思いを巡らせる。
唐突に表れる高田渡、本人に会わないほうが好きでいられるのはあるかもしれない。実体験として理解できる。
マグロの刺身に上から醤油を2、3回回してかける男になりたい。
「スカート、ホルモン」文學界2022年01月号
娘の通う保育園で次年度から制服にスカートが追加されることへの疑問と嫌悪感、そしてつい口にしてしまい新品のスカートは誰にも誰にもはかれることは無くクローゼットにぶら下がっている話。
ジェンダーというほどでもないが、親としての妙なこだわりを発揮してしまうことはままある。
先日、娘が一年生を歓迎する会でプレゼントを渡す代表になったという。
これはめでたい。と思ったら希望者の中からじゃんけんで決めたという。
「男子と女子」でそれぞれ1名というところに引っかかった。
別に希望者の中から2名ならいいのだが、あえて男子と女子に分けてじゃんけんをして勝ち残ったそれぞれ1名を代表にしたという。
なんじゃそれと小さく憤慨したのである。
我ながら面倒な親だ。
平民金子はその後、娘を保育園の帰りにホルモン屋に誘う。
保育園の帰りに寄れるようなホルモン屋がある環境は文化があるということだ、我が多摩地区にはそれがない。
ぼくは人工的な街の人工的な団地に住んでいる。
「武者川夕日」文學界2022年02月号
昔の恋人と思われる女性との話、納豆のタレは全部入れない女性に衝撃を受けた、そしてそういう世界(人)がいることを知る。
その頃住んでいた奈良へ行った際の話が綴られる。
そして生駒駅を過ぎて学園前駅で目に入った「柿の葉寿司」の看板。
欲求に贖えず、電車を逃してでも柿の葉寿司を食べることにする話。
人の感覚を表現する名文、最後以外はよくわかる。
今回は町要素が強め、過去から変わらない町、柿の葉寿司は以前に食べたことがあった、今度大阪に行ったとき(そう大阪へ旅行へ行った)にはなんとか購入できないものかと思案したのだけど、そんな必要はなかった。
よくよく調べたら新宿の京王デパートの地下で柿の葉寿司を売っていた。
とても感じのいい店員さんで、相談しながら2人前の柿の葉寿司を購入した。
家に帰ってその日の夕飯、昔、奈良に行った話をしながら妻と食べた。
娘は好きではないだろうと思い、オムハヤシを食べてもらった。
柿の葉寿司は美味かった、そして食べながら昔妻と行った奈良の旅行の話をする。
娘は二人の会話を聞いてよく「ずるい」という。夫婦の過去の思い出に自分が含まれていないことへの「ずるい」らしい。
「豚汁の松屋」文學界2022年04月号
「松屋」にて感じた均一化されたオペレーションと阻害されることのノイズについての話。
豚汁は好きだ、でも松屋や吉野家のようなところで頼んだことはない。
それが間違っていたのかもしれないと思わされた。
コンビニでバイトをしていた時に「領収書を下さい」と二人組のOLに言われたことがある。会社からの買い出しで明らかに自分用と思われるものを買っていた。
ぼくはレジのルーチンとして会計を済ませて、お釣りとレシートを渡して、その後に領収書を出力しようとした。
すると、「え?領収書は?レシートはいらないんだけど。」と半ばクレームのような強さで言われた。
こちらのルーチンなど知る由もないのだろうけど、こちらの方が驚いてしまい、なんてことのない袋詰めや領収書の出力に手間取ったことがある。
それ以来、お客としてノイズを挟むことには敏感になって、店員さんの様子を見ながらいつもオドオドと対応をお願いしている。
「カツカレー物語」文學界2022年06月号
掃除の話からカツカレーに例える。
カツカレーはカレーライスなのか、カツライスなのかなどの考察は全て東海林さだお先生によって行われていた。
そして理想のカツカレーは「なか卯」にあるらしい。
掃除するタイミングについての考察から急転回してカツカレー、それでも話はとても論理的にメビウスの輪になっている。
これで平民金子に感銘を受けて、ぼくは昼にカツカレーを食べた。
カレーはレトルト、カツはスーパーで買ってきた。
これで高速道路のサービスエリアのカツカレーが再現できると、その時は思っていた。
けど、そんなに甘いものではなかった。
あの粗雑なカツカレーは、簡単には再現できないのだよ。
あと食べ物の写真は難しい。
これは川崎の藤子・F・不二雄記念館近くの定食屋で食べたカツカレー。
正解ではあるが、もっと、もっと粗雑でもいいと感じた。
そうおいしすぎたのだ。
今後もカツカレーについては追及の手を緩めずに行きたい。
「親子丼と冷酒」文學界2022年08月号
吉野家神戸元町店からの、近所のもうすぐ閉店する老舗定食屋の話。
吉野家の親子丼と冷酒、どちらも未経験だ。というかそんなものがあることを知らなかった。
親子丼は落語家三遊亭歌武蔵によると、最も間違いのないメニューらしい。どの地方の、どんな寂れた定食屋に行っても親子丼はいつも同じ顔をしているとのこと。
ちなみにぼくは親子丼が好きではないので、生涯注文することはないだろう。
「豚平焼き」文學界2022年09月号
安倍晋三が銃撃された街へ行った話。
複雑な感情の中、入ったお好み焼き屋で食べた豚平焼き。
豚平焼き、そういうのなんだと知る。ちょっと食べてみたい。
純粋に食べてみたい。
「比叡山」文學界2022年10月号
最高の酒のアテを考えながら比叡山へ向かった話。
ぼくの究極のアテは漬物、またはわさび。先日行った立ち飲み屋の刺し盛りに添えてあったわさび、これで酒を飲んだ。それはそれはいい酒になった。
「猿の檻」文學界2022年11月号
関西弁の「どんならん」と村上春樹の「やれやれ」から、村上春樹の小説についての話と公園で食べた好きなものしか入っていない弁当。
村上春樹も飲酒運転も身近にない人生を送ってきたので、その辺りの理解はできないのだけど、高須院長の「見るからに高級そうな握り寿司をいかにも雑に、全部どんぶりに放り込んでそこにお茶をぶっかけてかきこんでいる姿」というのが、みたこともないのに容易に想像できて、かつなんかとても美味そうにも感じてしまった。
村上春樹も飲酒運転も身近になかったが、その高須院長の例えを読んだ瞬間どちらもわかったような気がした。
「お茶漬けの味」文學界2023年01月号
集団登校の見守りをしつつ考える、亀と笑の漢字、子供の挨拶、お茶漬け、そして最も残酷に命を奪った小説についての話。
想定外だった。永谷園のお茶漬けを食べる時、ぼくは温かい白米に粉をかけて熱湯を注いでいた。
そしていつも熱々でほくほくのお茶漬けを当たり前のように食べていた。
しかし、本当は温かい白米であれば水をかけるべきだったのかもしれない。
子供の通学路見守りと旗振りは同じく経験したが、子供たちの微妙な挨拶返しは確かに気になった。
返ってくることを期待しないで、挨拶をするというのも当たり前にやっていたが、そういうものなのだ。
いや、本質的にはこちらが相手を見ていなかったかもしれないとも思い当たる。
終わりに
文學界は引き続き定期購入している。
今の所、平民金子が掲載されている限りは続けようと思っている。
先ごろ、3DSのピクロスを購入していたら途中でクレジットカードを使用できないというエラーに遭遇した。
カード会社に問い合わせしつつ、カード止まってたら嫌だなと確認するため、
Amazonにて、欲しいものリストに入れていた平民金子の「ごろごろ、神戸」を購入した。
もちろんまだ読めていない。読書リハビリ中だから。
すぐに、読む・・・、のだ・・・。
サポートをしていただけたら、あなたはサポーター。 そんな日が来るとは思わずにいた。 終わらないPsychedelic Dreamが明けるかもしれません。