読書リハビリ:無防備な傘
引き続き、電子化した文學界を中心に読書をしている。
出かけた時、電車の中で。
子供を稽古事に送って待っている間に。
リハビリなので短いものが多い。
ちょうどいい分量が平民金子の「めしとまち」だったのだけど、
電子化したものは全て読んでしまったので、今はその他のエセーを読んでいる。
その中からまた気になったものを。
「無防備な傘」片瀬チヲル
文學界2023年02月号に掲載されていたものを読んだ。
不勉強なので著者の片瀬チヲルについては全く情報はなかった。
今回読んだ「無防備な傘」はAuthor's Eyesという1ページのもの。
リハビリには最適だった。
病院にいった際にプレゼントされた傘を、外の傘立てに置いていかなければならず、盗まれたらどうしようかと不安になる話。
ぼくもいつも同様の不安を抱えている。
コンビニに入る時もいつも気にしている。
娘と出かけた時は、あらかじめ傘の持ち手につけておいた輪ゴムで、娘の傘とくくりつけておいたりする。
そんな性格なので、最近はもう傘を持たない。
よほどの雨なら諦めるけれど、少しの雨なら我慢する。
傘がない
すぐに傘を盗まれたことを思い出せた。
五反田のサムギョプサルのお店で傘を盗まれたこと。
バイト先で、店員しか使えない傘立てに置いた傘を盗まれたこと。
近所のコンビニで朝に牛乳を買っていたわずかな時間に傘を盗まれたこと。
どれもダメージの残る盗まれ方だった。
特に思い起こされるのは五反田のサムギョプサルのお店でのケース。
これは完全に「無防備な傘」と同じケースだった。
雨の予報があったので傘を持っていたのだけど、店員に傘立てに置いてくれと言われたので若干の不安を抱えつつ大人しく従った。
肉を食べていると、外では結構な雨に。
「やっぱり予報通りだったね、傘持ってきておいて良かった。」なんて。
会計を済ませて傘立てを見ると傘がない。
傘がない。
店員に文句を言うことも一瞬頭をよぎったが、アルバイトの店員であれば店のルールを伝えたまで、謝罪はあったとしてもそこに心はない。
言うてもしょうがない。
幸いなことはその時は妻と二人だったので、
「せっかく持ってきたのに盗まれちゃったね。」
で済んだこと。
あと盗まれたのはビニール傘だったこと。
そう決定的に違うのは片瀬チヲルの場合はビニール傘ではない。
そんな素敵な人間関係があるのですね、現代にも。
ちょっとぼくの耳にはそういう話が届いたことがない。
ともかく、そういう思い出も含まれた素敵な傘であれば、やはり無防備に置いていくことはできない。
ぼくのビニール傘が盗まれたことなんて、比較していい類の話ではないのである。
と、傘を盗まれる不安という1ページのエセーでも随分と考えさせられた。
ぼくもしれっと「雨の日もいい気分で過ごしてもらいたいから」と傘をプレゼントしてみようか。
サポートをしていただけたら、あなたはサポーター。 そんな日が来るとは思わずにいた。 終わらないPsychedelic Dreamが明けるかもしれません。