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読書リハビリ:めしとまち 30 平民金子

よきエッセーは、想像を掻き立てる。
めしとまちを読むと、よく自分のケースを考えて思索に耽ることがある。
読んで楽しめて、考えて楽しめて、そしてもう一度読む、そんなエッセーに出会った時が嬉しい。

文學界の連載、めしとまち、10月号のものは読み終えたつもりになっていたが、読んでいなくて、後から気づいてこうして興奮している。

めしとまち「肉するめ」

私が今なお手にしている希少な不明物はできる限りわからないままにして世界を延命したいという願望があり、それは肉するめにしても同じである。

「めしとまち」 平民金子 文學界2023年10月号

そう、これはまさに。であった。
簡単にいえばUFOの存在とか、ネッシーとか、サンタクロースとかでもいい。
それを信じている間は存在しているものについて、無下に答えを出す必要がないのではないか。
(ネス湖でのネッシー探索は、ある意味で面白いのでその限りではない)

平民金子の「松花堂弁当とは何か」もとても素敵な問いだ。
こんな素敵な問いを持った人生は豊かに違いない。
ある点では答えを求めているのだが、求めていない。
知りたいのだけど、知りたくない。
本当の意味で、「ネッシーはいるか?」などと問うてはいないのだ。

落語の「やかん」を思い出す。
なんでも知っているという隠居さんに、「あれはなんでそうなったんですかね?」と問いを繰り返す話だ。
それに対して「知らない」と言いたくない隠居は、ひたすらに出鱈目な説明を繰り返す。
これだ。はなから正しい答えが聞きたいのではなく、その思索と過程を知ることが楽しいのだ。
(出鱈目な隠居AIなんてあったら面白いのだけど、AIが正解を説明することを求めるのが世の中なのだろう。)

ぼくはよく妻に尋ねることがある。
例えば、「エスカレーターで左側だけ止まるのは何故だろう」とか。
それは答えがないことだろうけど、その思索が楽しいのだ。
諸説ありますの、一つを知りたいのではなく、その諸説の論理立ての過程を知りたいのだ。
「江戸時代に帯刀していた侍が刀同士がぶつからないように右側通行になり・・・」云々みたいな想像をたどったりすることとか。
正しい、正しくない、出典がどうとかそういうことではなく。

それをスマホで調べるとか、そういうことではないのだけど、妻はスマホで調べてしまったり、「調べれば」などと言う。
野暮なのか、そんなことを幾度も問う私に嫌気がさしているかのどちらか(主に後者と思われる)だろう。
こんな説明をして付き合ってもらうことでもない。

だがしかし、もし娘に「天国はどこにある」と問われた場合、スマホで調べるのか。
「なぜ食肉という文化があるのか」と問われた場合は。
答えはあるのかもしれないが、ないかもしれない。
そんなことを一緒に考えるのが楽しいのだけどな、と思う。
そしてなんとなく「それらしい答え」が見つかって、お互いに「それかもね!」となるような時、そこに一つの答えが導き出された瞬間であり、偉大な発見を共有できたようで嬉しくなる。
娘とそんな会話をする前に、いかに自然にそんな会話ができるか、またはそういう思索を楽しいと思えるようになるかを考えておかなければならない。
スプラトゥーンの話を楽しげにしてくれている間に、考えておくのだ。
残された時間は少ない。

若干、平民金子の話とはずれているが、そこは目を瞑ろう。

答えがない問い、答えを出したくない問いを、相手に合わせて問えるような大人になっていきたい。
そんなことを考えながら、もう一度本エッセーを読んでみた。
あれ、若干どころか、結構違うことになっているなこれ、と思うが端緒は間違いなく「めしとまち」だったのだからいいか。
そういうこともある。


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