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読書リハビリ:疫病と私たちの日常

読書リハビリは順調、連休中はキャンプに行ったのだけど、キャンプ場で、立ち寄った温泉施設で、一人の時間を見つけては電子化した文學界を読んだ。
思惑通りであり、読書量も増えていきたのでそろそろ本格的なリハビリとして文庫本にも手を出そうかと思ったりする。

今回は2020年7月号の文學界、特集疫病と私たちの日常を読み進めた。
コロナ禍での作家さんたちの日常がそれぞれ綴られており、とても興味深かった。
いくつかは過去に読んでいたものもあったのだけど、改めて読み直してみた。

「ビニールカーテンの美しさよ」朝吹真理子

出てくる話が表参道やらでの出来事が多く、都会でも同じような外出制限があり、よりゴーストタウンのようになっていたのだろう。
緊急事態宣言が出ていた頃、ずっと家にいたので都会の様子を知れて良かった。

亡くなった祖母が認知症になったとき、往診に来た先生に認知症のことをたずねたとき、これは忘れる病気で、さいごは、息をするのを忘れて、亡くなります、と言われた。
怖いことでもあるけれど、覚えたことをひとつずつ手放して去る、というのは、なんだか素敵だとも思った。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

コロナとは無関係なのだけど、認知症についての話がとても印象に残った。
自分が自分ではなくなっていく不安みたいなのはよく聞くが、手放して去るという表現を目にしたとき、それもありだなと思う。

「非常時の日記」千葉雅也

インターネットがあると、講義もオンラインでできて困らないという点、なぜかコロナ前はそういうの許されなかったな。
ぼくの職場もコロナ禍以降は自宅から仕事ができるようになったが、何か問題で実現していなかったのか、今となってはよくわからない。

このウイルスは、「ただ生きているだけで危険なのだ」という以前から当たり前だった事実を誇張して見せている。
我々は、ある程度の警戒と防御で出歩いてきたし、それはこれからもそうだろう。ある程度、である。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

通常生活しているとそこまでの警戒はないのだけど、要するに同じこと。それが誇張されているのだよという点は非常に合点がいった。
ある程度、である。
結局大きく変わったようで、本質は変わっていなかった。
後述する、ミシェル・ウエルベックと同様の認識に至っていた様子。

「俺たちのニライカナイ コロナ禍日記」栗原康

栗原さんの文体に初めて触れたのがこれだったのは強烈に覚えている。
なんとも軽快で、すっと心に入ってくる文章だった。

むかし矢部史郎さんがこのトリアージに注目していて、こわいのはみんなのまえで黒いカードをはりつけること自体だといっていた。公然と死の了解を取ってしまう。
人間の生死が合理性にゆだねられていく。それこそAIであれば躊躇なく色分けをやるだろうし、それがこわさだとおもうのだが、ふつう人間にはできないはずだ。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

トリアージが必要なのはわかる。
医師や看護師も人間なのも理解している。
子供を地域の拠点病院に連れて行った時も、このトリアージを体験した。
人が全然いないのに、なぜトリアージと思ったのだけど、多分小児科以外にも医師が兼務していて、より優先度の高い方から診ているのだと思っている。
とても大きな病院で、綺麗で、機械化されているのだけれど、人は足りていないということなのだろう。
トリアージ後、待たされている間の心細さ。
弱いものを捨て置くようなことになってはいけない。
子供を連れていてからこそ、勤めて明るく振る舞った。

「感染拡大下の電車通勤について」津村記久子

2009年の新型インフルエンザ流行の際に会社員だった著者、引き合いに出されていて、思い返したのだけど、2009年はどうだったか全く記憶にない。

マスクを買えずに、通勤電車に乗っている自分たちは炭鉱のカナリアだ、とその時に思った。わたしたちから一人ずつ、止まり木から転落していくのだ。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

コロナ禍以前、以後でも満員電車はついぞ解決されなかった。
解決する手段がないのか、解決する気がないのかわからない問題の一つだ。
あともう一つは花粉症。

会社員の友人の話を聞きながら、できるものならわたしも通勤したいと思っていた。同じ時代を生きる人間として、同じリスクを持てないものかと思った。しかし、そうすることがまたウイルス蔓延のリスクを増加させるなんて、このウイルスは性格が悪いとしか言いようがない。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

ぼくはリモートワークになったので、通勤電車には乗らなくなった。
それでも最後に出勤した日の山手線のガラガラ具合には驚いた。
そしてこんな状況でも会社に向かわなくてはいけないことの馬鹿馬鹿しさ。

「これは戦争ではないので、誰も戦士にも戦場記者にもならない」小谷田奈月

戦争にまつわる言葉を緊張感なく用いることは、平和の綻びの一つだと考えています。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

コロナ禍を戦争に準えて比喩としてそういう言葉を使う人がいた、いる。
言葉はもっと大事にしなくてはいけない。
自身の言葉は常に誰かに向いている。
簡単に使ってはいけない言葉はままある。
そういうのは全部、野球用語に置き換えていこう、昭和の匂い。
と思ったら、野球用語もかなり物騒だなと気づいた。
二重殺とか、死球とか。

「解放を夢見ながら」平野啓一郎

緑の木々が常と変わらず生い茂っていて、春風に靡くその葉音が心地よい。世界的な経済活動の低下によって、地球環境は一時的に改善しているらしいが、東京の空気も、多少は良くなっているのかもしれない。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

緊急事態宣言が出て学校も休みになった頃、子供と毎朝近所の公園に出て軽い運動をしていた。
人もまばらだけど、公園はいつも通りで。
本当はそういう生き方を選択する人が増えてもいいのではなかろうか。
週休3日の人とか、お金たくさんもらうよりも、給与の代わりに休みを。
給料が少し下がっても休みが増える方がいいのではないか。
まずは偉い人から実践してもらえると、下の人は気兼ねなく仕事ができるので、効率が上がるのではないだろうか。なんて。

「少しばかり、より悪く - 何人かの友への返信」ミシェル・ウエルベック

今回特に気になった人はウエルベック。
いくつかの小説は翻訳されているようなので、そのうち読んでみようと思う。

人類の消滅に関して当時、私の脳裏にあったことなのだ。すなわちスペクタクル映画的なものは一切なし。何かかなり陰鬱な状況。孤立してそれぞれの個室に閉じこもった者たちが、同類とのあいだに身体的接触をもたず、インターネットでやりとりするだけで、徐々に衰亡していくといったふうな。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

ノストラダムスの大予言世代としては、人類の滅亡はスペクタクルと相場が決まっていた。
ただ、その瞬間に全人類が滅びるわけはなく、人類が滅亡するとすれば徐々に衰退していくに決まっている。
そんな当たり前のことを丁寧に説明してもらった気がする。

外出制限令の解除後、目を覚ましてみたらそこは新しい世界というわけではなく、これまでと同じ世界だろう。ただしそれは少しばかり、より悪くなった世界なのである。

文學界2020年07月号-特集疫病と私たちの日常

ウエルベックは当時、パリにいて、ブロックごとに規制された外出制限の最中にいたそうで。
ぼくらが東京で経験したことよりもより一層制限を受けていたに違いない。
コロナ禍以降、世界は少しばかり、より悪くなっているのだろうか。
衰亡はもう始まっているのだろうか。

コロナ禍日記

こうして読んでみて、作家さんの描くコロナ禍日記はとても興味深く、なんなら他にもこういうのあるのかなと探し始めています。
もう少し読書リハビリが進んで、自宅に積んである本が減ったら購入していこう。

サポートをしていただけたら、あなたはサポーター。 そんな日が来るとは思わずにいた。 終わらないPsychedelic Dreamが明けるかもしれません。