犬泥棒(ちくま800字文学賞応募作品)
犬は防犯に役立つ。そう思う者は多いだろう。犬の使命とは、飼い主を守ることだ。怪しい者には吠え、勇敢に飛びかかる。
俺は泥棒だ。普通、泥棒は犬のいる家を避ける。だが、俺は違う。俺は、どんな犬でも手懐けることができるのだ。
その夜、俺はとある豪邸の前に立っていた。立派な門柱の隅に、小さな逆三角の印がある。仲間がつけた「犬がいる」というサインだ。玄関の防犯カメラは、明らかにダミー。俺は、屋敷を囲む石塀を悠々と乗り越えた。
降り立った庭は広かった。片隅に古ぼけた犬小屋があり、茶色い尻尾が覗いている。中には柴犬が一匹いるはずだ。
俺は犬小屋をのぞき込んだ。暗がりに、濡れて光る二つの目がある。俺は、拳をそっと小屋の中に差し入れた。
不思議なことだが、俺の匂いを嗅いだ犬は、必ず俺に懐く。今日も、犬は俺の手に誘われるように、月明かりの下に顔を覗かせた。
その顔を見て、俺は息を呑んだ。
犬は、左目に酷い傷を負っていた。何かで力任せに殴られたような傷だ。よく見れば、犬はげっそりと痩せており、ぼろぼろの毛並みのあちこちに生傷が覗いていた。
虐待されている。そう思った瞬間、噴き上がるような怒りが俺を襲った。
犬は俺に牙を剥き、かっと口を開けて喉を震わせた。しかし、咆哮は起こらなかった。犬は無惨にも、喉を潰されていたのだ。
胸が震えた。こいつは、こんな酷い目に遭ってもなお、主を守ろうというのか。
初めて出会った、俺に懐かない犬。俺の心は決まった。
「お前を盗む。悪く思うなよ」
俺は犬から首輪を引き剥がし、骨張った体を抱き上げた。門から堂々と屋敷を出ると、俺はそのまま、闇に紛れた。
あの家は元々、金持ちの老人のものだった。老人が病気で入院した後、その息子が後釜に座ったという。犬は、老人の飼い犬だったのだ。
「お前、じいさんを待ってたのか、あの家で」
返事が返るはずもなく、俺はただ、傍らに寝そべる犬をゆっくりと撫でた。
#ちくま800字文学賞 応募作品です。