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山手線の守護者たち(ちくま800字文学賞応募作品)

「狛犬ポジション」――電車のドアの両脇の「あの場所」のことだ。
毎日満員電車で通勤する僕は、この場所の快適さをよく知っていた。
しかし、この場所がネットで話題となり、名前が付き、そこを他人に譲る行為が賞賛されるようになった時、僕は決意した。

僕は、このポジションを守る。そして、ここを真に必要とする人に使ってもらうのだ。それは確かな偉業に違いない。

僕は毎日、できる限りポジションを確保し、必要な人には笑顔で譲った。
お礼を言われるのはやはり嬉しい。僕はささやかな達成感を存分に味わっていた。


その日、僕は首尾よく、電車の向かって左側のポジションを確保した。今日も山手線の乗客は多い。
電車が高田馬場駅で停車した時、僕は乗り込んでくる人混みの中に、赤ん坊連れの母親を見つけた。
当然、ここは彼女に譲るべきだ。そう思った時、僕はその後ろの、杖をついた老人に気がついた。

僕は迷った。
子連れの母親は、丸々太った我が子を抱え、大きく息をついている。
一方老人は、周りの人垣に押され、今にも押し倒されそうだ。
どっちだ? どっちにこのポジションを譲ればいい?

ふと反対側のポジションを見ると、そこにいた青年と僕の目が合った。
その青年は、見たところ大学生のようだった。
彼の困ったような顔を見た時、僕は直感した。

この人は、僕と同じだ。「狛犬ポジション」を守り、人に譲ることを使命としている者だ。

彼も同じ事を考えたようだった。僕たちは流れるように行動を起こした。
僕は母親に、青年は老人に、静かに声をかける。それぞれに左右のポジションを譲ると、僕たちはドアに向かって並び立った。


静かな達成感が、僕の心を満たしていた。隣の彼も同じに違いない。

「僕、新宿で降りるんだ。君は?」
「……俺もです」

僕たちは、ドアのガラスに映るお互いの顔を見た。
余計な言葉は不要だった。
今日はきっといい酒が飲めるだろう。



トップ画像出典∶photoAC

#ちくま800字文学賞 応募作品です。