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アントレプレナーシップと学問への向き合い方

とあるセミナーで、起業家の方からの話を聞く、というものを経験してきました。「アントレプレナーシップ教育」を学校で展開する、そのポイントとつながりを広げよう、みたいな会でした。

アントレプレナーシップ教育がすぐ「マインド」とか「リーダーシップ」とかの話になるのなんでなんだろ、と前から思っていたのですが、「アントレプレナー(起業家)になることはあくまで手段であり、起業家の数が増えたら教育が成功というわけではない」という話で納得。アントレプレナー「シップ」の教育なのだから、心構え以外まで踏み込むのは主旨に合わないところもあるのですね。

さて、アントレプレナーシップ教育が語られる際に、以前からひっかかりを覚えてきました。この手のプログラムが推されるとき、だいたい定型文として以下の3つがこの順で出てきます。
1️⃣現代の社会は変化が激しく課題が多い(未来はもっとそうなる)
2️⃣今の教育では対応できない
3️⃣だからアントレプレナーシップ教育を早期からやらないといけない
アントレプレナーシップ教育を紹介する側も導入する側も、等しくこの3点をこの順で挙げてきます。それぞれに対応する具体例にはブームがあり、最近だと「VUCA時代」と「AIが仕事を奪う」が人気ですね。

起業家たちもそれを支援する人も、教育への関与に意欲的な方が多いです。それはありがたい側面も大いにあります。しかし、なぜ彼らは教育への関与を望むのか。そして、関与するといっても多くは「イベントをやる」か「講演をする」の2択です。継続的に授業1つ持ちます、みたいなのは聞いたことがない。

セミナーの中で、「学校教育の中で今、あれを学んで良かったなぁと思うものはありますか」という質問があり、それに対して2人の起業家は、1人が「国語の現代文」1人が「体育」と答えたのでした。大学の授業で「いろいろな第一線のビジネスマン、本物の話を聞くのが刺激だった」と続けられました。また、進路指導の話で、「自分が面談で言われたのは偏差値の話ばかりだった」というコメントも有りました。
前述の2️⃣今の教育では対応できないにおける「今の教育」とは、「特に印象にも残らず役にも立っていない退屈な授業と偏差値ベース受験はめ込み型面談」として描かれていたわけです。この起業家さん以外にも、「今の教育はだめだ」系の論調の「今の教育」とは、多かれ少なかれこうしたイメージで語られているように思います。

そこで彼らは、「自分が本物として、本物の話を子どもたちに届けよう」という使命感に駆られるのでしょう。彼らの受けた教育が画一的・定型的なはめ込み指導であったことを前提に、それへのアンチテーゼを供給しようとしていると読めます。

学校で行われているのが退屈な授業と偏差値至上主義指導である、という指摘はすべてが的はずれなわけではありません。どうしても画一的・定型的な指導を遂行しようとしてしまうところも大いにあります。その限りにおいて、起業家の持ってくれる使命感はありがたく、彼らとの連動は教育に足りないものを供給する可能性のある、価値あるプロジェクトとなります。この重要性は十分指摘すべきでしょう。

ただ、これで話を終わってはいけない。引っかかったのは次のようなトークでした。

ある起業家が、オランダ人との会話だとして紹介したエピソードです。

「オランダの学校の夏休み宿題は、幸せについて考える、の1つだけだった。これを毎年やっていくことで、自分のことについて考え語れるようになる。こういう哲学が学校にもっとあっていい」。

おおむね上記の内容でした。彼は、日本人があれだけ勉強しているのに自分の意志について語れないことへの危機感という文脈で、このエピソードを紹介したのでした。夏休みの宿題がワーク・ドリル学習を山ほどやるものであることが、前提としてあります。

学校教育において「哲学」(と彼らが言うもの)は、夏休みの宿題に豊富とは言えませんが、学校生活全体ではもう少し含まれているはずです。「学校に哲学がない」ではなく、「学校にある哲学が機能していない」という問題提起なら、まだわかります。

それよりも、彼らが「哲学」と称するものは、「幸せについて考える」レベルの振り返りだった。このことが、アントレプレナーシップ教育と聞いたときのひっかかりのポイントです。オランダの学校の宿題も、「幸せについて考える」ことはあくまでネタであり、その後のディスカッションと、その営みを数年間にわたって継続すること、そこにおいて教員が適切にファシリテートすることがカギとなっているものでしょう。しかし、彼らは「教科のドリル学習よりも、幸せについて考えるような経験が大事だ」という意味合いに転換して、主張に用いているわけです。

教科教育よりも、豊かな経験が大事だ。一見示唆に富む発言に見えて、その実、かなり危うさに溢れた表現です。

セミナーで講師として登壇する人物とは、少なくともその時点で成功を収めているはずの人物です。生き馬の目を抜くような競争を勝ち抜いたビジネスパーソンであるわけです。彼らは自分は成功しているという隠れた確信のもとで、現在の自分が価値を見出しているものを、良いものだとして語っているわけです。学校教育はこうした語りの中で、価値を見いだせないものとして語られているわけです。

彼らの実感は、1つの事実です。別にそれを否定する必要はありません。しかし、この語りから「学校でやっていることは役に立たず価値がない」と一般化するのは、飛躍もいいとこです。
ところが、ビジネスパーソンばかりか、行政や教員自身も、時にこのような主張に走りがちです。教員仲間の中にも、「今の学校はこのままでは滅びる」と言いながら、ビジネスマインドを子どもに(だけでなく教員に)身に付けさせようと主張する人はいます。「学校の常識は社会の非常識」という根拠のよくわからない主張もまことしやかに語られ、だからとりあえず民間人材を教育に送り込もう、という論理的と言い難い政策も行われています。

自分のなしえたことから振り返っていく限り、そこで見出されるのは価値(Merit)の視点です。それも、暫定的・相対的で、自己中心的な価値であり、有用性の世界の中に閉じた価値です。
もしもここから彼らの事業が傾いたり、新たな事業によって駆逐されたときに、あるいは年経て思考が変わってきたとき、彼らが今、有用であると主張する価値は、いくらか割り引かれたり、根本的にゼロ査定されたりして再評価されるでしょう。今の時点で価値を見いだしていなかったことについて、この先突然有用性が発見されたら、「やっぱり●●が大事だった」と主張するでしょう。
世の中のビジネス本の表紙を見ても「本当に大切なことは●●から学んだ」シリーズがなくなりません。同じような主張が繰り返し立ち現れていくのは、有用性の世界で見出される価値がどこまでも暫定的で相対的で、そして自己中心的であるからに他なりません。

彼らは時流に乗って当座の評価を確立した存在ですから、行動力や社会への活力、自己効力感などの世界において、彼らの価値への捉え方は助けとなるのは事実です。しかし、教育や学問に対する評価軸まで、彼らに委ねてしまう必要はない。それは、教育や学問に対する不当な評価というべきです。

知の営み、すなわち学問の世界においての基本的なスタンスは、知そのものに豊饒な世界があると信じるところにあります。学ぶ者がその価値をまだ見いだしていなかったとしても、それはその人がまだ分かっていないだけのことです(もっと勉強しろ、となります)。そして、学んだ学問が役立たなかったとしても、それは学問に価値がないわけではなく、ただその人が使わなかっただけのことです。さらに、使わなかったとしても、そこには人類が積み上げてきた思考の体系があり、すべての文明はその思考の上に立脚していることは、事実として揺らがないわけです。いかなる価値も、文明を離れては存在できません。今役に立っているものも、その典拠をたどれば、学問と思考に由来します。

自分にとっての価値(Merit)や利益(Benefit)とは別の位相に、普遍的・超越的な価値(Universal Value)があることを信じ、尊重する。真・善・美といった普遍的なものを尊重する態度も、ここに重なります。学校において学問の入口となる様々な教科の学びがなされているのは、こうした普遍的価値に遭遇する契機だと言えるわけです。

この駄文は「アントレプレナーシップ教育」から始まったのですが、この教育が目指すものは別に普遍的・超越的な価値の否定ではなかったはずです。むしろ、ビジネスの世界こそ、社会をよりよくしていくという普遍的・超越的な価値を日々意識しているとすら言えます。
アントレプレナーシップ教育と聞いたときのひっかかりとは、学校教育を無価値なものとみなし、それを価値(Merit)や利益(Benefit)の追求へと歪めていくような動きが背後にあることに由来していた、とまとめられそうです。学問への敬意の無さへの警戒とも言えます。

となると学校教育においては、知の世界に触れる普遍的・超越的な価値の体験に裏付けられた教育を復権することと、それを用いて世の中を改善していくこととが、正しく行われるべきだということになります。前者は豊かな学問経験によって、後者は本来のアントレプレナーシップ教育によって、成し遂げられるはずです。

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