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読書記録7:『<責任>の生成』②

『<責任>の生成』続き。

前回は生徒の選択を「主体性の発揮」とみなすことに、教育の原義から照らした問題がある、という示唆を得たことを書いていました。

この本の中で、直接的に教育に関連する部分がありました。OECDの示す「キー・コンピテンシー」が扱われていたのです。
キー・コンピテンシーとは、コンピテンシーすなわち知識・技能よりも包括的で上位の能力の中でも、特に主要とされるものとして、以下の特徴で定義されたものです。
①個人の成功と社会の発展にとって価値がある
②さまざまな状況における複雑な課題に応えることができる
③特定の専門家だけではなくすべての人にとって重要である
2000年代初頭から、このキー・コンピテンシーを身につけているかを図る国際学力到達度調査「PISA」が行われ、日本はこのPISA型学力が低く出たことから、いわゆる「脱ゆとり」が始まったとされる、あのキー・コンピテンシーです。

国立教育政策研究所
「キー・コンピテンシーの生涯学習政策指標としての活用可能性に関する調査研究」より

「意志とは切断である」というアーレントの定義、すなわちあらゆる事情や文脈を切断し、「選んだのは私の意志だった」ことにする営みが意志である。この定義を踏まえると、「キー・コンピテンシー」をすべて身につけた姿とは、過去を積極的に切断し、「自分の人生はこういうキャリアデザインだ」と未来志向的に物語る人物である、という説明があったのです。
さらに、キー・コンピテンシーの対極が自閉症(ASD)であり、キー・コンピテンシーが称揚されるのと発達障害の診断数が増えることとがパラレルである、という指摘もありました。

以前の勤務先で、「しなやかさとしたたかさ」が研究開発のテーマになっていた時がありました。今思うと、これはキー・コンピテンシーそのものだったと言えるでしょう。
「しなやかさ」とは、「折れない」という言葉で端的に説明されます。植物を例によく語られますが、外から強い力を受けたときに折れてしまうこともなく、受け流して回復する力として語られます。これをメンタルヘルスと関連付けて「レジリエンス」と呼ぶのも流行りました。キー・コンピテンシーでいう「異質な集団で交流する」のA「他者とうまくかかわる」という身もふたもない表現は、まさにこれです。
「したたかさ」も粘り強く、圧力に屈しない様子を指します。時には「ずる賢い」というニュアンスまで伴うような表現です。「自律的に活動する」の部分と「相互作用的に道具を用いる」の部分とは、この言葉で補えそうです。「ずる賢い」というネガティブな側面になりがちなところを、中央の「思慮深さ」で中和しています。

しなやかに、そしてしたたかに、あらゆることを積極的に切断していく、意志ある主体。切断される中に過去もあります。「これまでの人生はさておき、ここからの人生をどうしていくか」という未来志向の発想が、その人の「意志」の発揮された状態であると言えるわけです。
この図式は、「キャリア教育」とよく結びつきます。文部科学省の定義はこうです。

〇人が生涯の中で様々な役割を果たす過程で、自らの役割の価値や自分との関係を見いだしていく連なりや積み重ねが、「キャリア」であるとされています。
〇一人一人の社会的・職業的自立に向け、必要な基盤となる能力や態度を育てることを通して、キャリア発達を促す教育が「キャリア教育」です。

文部科学省「キャリア教育」

いずれの定義も未来志向です。未来に向けて、自分の価値や役割を見いだし、自立に向かう。「見いだし」という表現がポイントです。就活中の大学生も、自分の強みや価値などわからない、とよく嘆いていますが、わかるわけがない。見いだすには、様々な自分の特徴を切断して、「これが価値である」と創造するしかない。本当は多種多様な自分が生きてきただろうけれど、それはさておき「自分はこうである」と意志することになります。

さらに、それは自分で行うものであるとされます。一人ひとりが自分のキャリアパスを日記のように編纂する。編纂することで自分はそのキャリアを確かにたどり、これからも進んでいく人間である、と意志することにつながる。そういう状態が「よいキャリア意識を持っている」とみなされます。そのためキャリア教育は、教員は生徒がキャリアを発見できるように支援し、生徒が選択できることが1つのゴールとみなされます。

キー・コンピテンシーを身につけ、キャリア意識を持った生徒を育てるということは、前向きに(前だけを見て)、自分の特徴を適宜切断して「これが私である」というキャリア意識を持つ人間を育てる、という意味になります。 

前にも書いたアントレプレナーシップ教育の中で、起業家たちが自分の受けた教育を「役に立たなかった」と評価しているのも、1つの切断のあり方です。むしろ、切断したことが自分のキャリアであると思っているわけです。

しかし、多くの人間にとって切断することにはためらいと後悔が伴います。自分にとって合理的な価値ではないが、それでも捨てがたい過去を捨てされずに悩むことは、大人でも多くありますが、高校生くらいにはより強い傾向です。そんな人間に「しなやかでしたたかになれ」と言うことに、違和感を持ち続けています。

ここにおいて、「中断」という概念が導入できると思うのです。
キャリア教育においては、不可逆の、未来志向の選択を、予測不可能性を前に即時行えるような主体を求めています。これに順応する「強い」教育を降りる=中断し、多様な世界に応答する問いに向き合うような「弱い」教育、ガート・ビースタが主張している「中断の教育学」を、ここに来て思い出したのでした。

ビースタも「説明責任」から「応答責任」という表現を奇しくも使っており、『<責任>の生成』の関心対象と重複しています。

となると、次はビースタを中動態の観点から読みなおせば、新たな知見が得られるのではないか。いつ読もうか。

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