見出し画像

外見を評価し評価され続けることについて

世には、ルッキズムといわれる風潮がはびこっている。

あくまでも私の周りをみて言うだけの話ではあるが、日本に住む多くの若者は、この外見至上主義の思想に少なからず影響を受けているように思う。
そして、この風潮はこれからもますます強まるように思う。
個人的には非常に残念で、悲しいことだ。

私ももちろん、この影響を免れているわけではない。むしろ無意識のうちにずっぽりとハマってしまっている部分が多いと思う。

ただ一方で、個人的に"良い"と思う他人の外見や行動がどうも世の中の王道とは少しずれている節があって、幸か不幸かルッキズムに対して疑問を持つことも多い。
たとえば誰かが「○○(アイドルの名前)って本当に可愛い」みたいなことをいったとする。
私は、確かにその人が類まれなる外見の持ち主であることはわかるのだけれど、自分の趣味嗜好と照らし合わせた時にその人が絶対的に「可愛い」とは言い切れないと考える。
あなたの「可愛い」と私の「可愛い」は質的にどう頑張っても同じにならないのに、なぜ安易に同意できるのだろうか?
「みんな」が可愛いと思うのなら、私も同じように思わなければいけないのだろうか?

いわゆるマスメディアやSNSでは外見的に「優れている」とされる人が常に存在し、それをみる人々に対して提示されている。
そしてその外見的に「優れている」人に実際に多くの人が惹かれる。
多くの人が外見的に「優れている」人に惹かれている様子は、またメディアで提示される。
私はそれをみて、やっぱりその人の外見は「優れている」のであって、だからこそ多くの人に支持されているのだと思う。
この一連の流れが反復されるなかで、外見的に「優れている」人に惹かれ、自分もそうなりたいという欲が湧くのは「自然」で「良い」ことなのだとすら思う。

より多くの人に「優れている」と認められた外見は、ルッキズムにおける「優れている」ことの基準になる。
そしてまたその基準を用いて人々が評価し、評価される……。
「優れている」のか、そうではないのか。
「優れている」ほうになりたいと願う。
どうすれば「優れている」人間になれるのか、情報を集め、教えられる。
どうにかして「優れている」側にならなければいけないと、強迫観念に襲われる。
こんなループが続いているのか。

また、この時代は、視覚優位だと思う。
人々は美しい写真や目に好ましい刺激を与える広告を、一日中見続けている。
目が肥えて、肥えすぎているようにすら思う。

外見的に「優れている」のであれば、さもその他の内面的な部分や言動も「優れている」人として判断される傾向もあるように思う。

あくまで個人的な意見だが、アイドル文化は特にその傾向を体現していると感じる。
外見的に「優れている」とされるアイドルたちは、歌やダンスもよくこなし、その他の才能にも恵まれ、人間的にも「優れている」ほど好ましいとされることが多いと思う。
実際にそのような存在として活躍している(活躍している、と宣伝されている)アイドルをみると、かれらは現代の人々の欲望(とされるもの)を体現しているからこそ支持されているのではないかと思う。
そしてアイドルたちはメディアや広告に出演しながらさらに私たちの欲望を刺激する。かれらは、あらゆる対象を「消費」することや何かに対して「努力」することも促す。

考えれば考えるほど、わからなくなってくる。
私たちが「優れている」と考える外見は、なぜ「優れている」のか。何が「優れている」のか。
なぜ私たちは「優れている」外見を評価するのか?自分が「優れている」外見ではなかった場合、なぜそれによって自分がまったくすべてにおいて「劣った」存在だと思うのか?

個人的には、生物として、好きな外見があることは至極真っ当で、それに対して評価をしたりされたりすることも真っ当だと思う。
でも疑問に思うのは、例えばすべての人の好きな外見の基準がまるで同じであるかのように思い込ませる(もしくはその基準に同意しない人がいた場合、その人が変なのだと強迫したりする)言説があることや、外見に対する純粋な欲望を利用する広告や言説が世にあふれているということだ。

私を含む日本に住むほとんどの女性は、身体の毛を好ましいものとして見ていないように感じるが、それはなぜだろう?
先天的にそう思っているのだろうか?

こうした疑問を忘れなければ、まだ、わたしは誰かの利益や欲望のために人工的につくられた「ルッキズム」に飲み込まれないですむのだと思う。

二重がいいとか、顔が小さいのがいいとか、足が長いのがいいとか、童顔がいいとか、今の時代により多くの人に支持されている基準を自分の基準として思い込むのは簡単だ。
でも、自分だけが持っている基準を、手放して、自分の感情を忘れて、脳死で「優れている」外見の人に「いいね!」して、無数のフォロワーのうちの一人になって、結局何がしたいのだろうか。

人と同じ基準を持っていることへの安心感?
それが大事なことも十分にわかる。わかる。

確かに私だって、あるときは、自分基準では「いい」と思わない外見を他の人にあわせて思わず「いい」と言う。あるときは、果たして本当にこれが自分のしたいメイクなのかもわからないし、そもそもメイクなんて本当は別にしたくないのに、「流行」の「可愛い」メイクをしてみる。
人の欲求や考えに自分の言動を無理矢理合わせている。

こうした日々の中で、自分だけの基準や自分の感情を忘れないようにしたい。
たとえ人に対して自分の基準を偽ることがあっても、自分だけは本当のことを忘れないように。
そうしていけたら、「ルッキズム」という言葉でまとめられる謎の風潮の中で、生き抜いていけるような気もする。

自信は、ないけど。

私と同じような疑問を持っていたり、今の風潮に馴染めない人がいたら、がんばろうね。いっしょに。そして、それぞれの感覚を大事に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?