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キリスト教の解釈で振り返るシン・エヴァンゲリオン

この記事はシン・エヴァンゲリオン劇場版 :||のネタバレを含みます。

私は伊藤という、とても平凡な名字で生まれた。そして一族の末裔だった。結婚したらおそらく姓はなくなるだろう。

あるとき、祖父に「私が末代でいいの?」と訊いたことがある。

祖父は言った。

「伊藤が死んでも、替わりはいるもの」

ずっこけた。祖父、まさかのエヴァンゲリオン履修者だった。……というくらい、2000年ごろに新世紀エヴァンゲリオンは流行った。とにかく流行った。アスカかレイか、どっちが好きかでクラスは分断した。ひねくれ者のわたしは、ミサトさん派だった。

ロンギヌスの槍、生命の樹、取り憑かれたようにネットの考察サイトを調べ、気づけば留学先の高校で宗教学を履修していた。そんなわけで今回の記事は、キリスト教の観点からエヴァを振り返る旅である。

そもそも旧劇のエヴァはどんな話だったのか

人類は知恵の実を食べた代償に、不死の生命を得られる生命の実を食べられなかった。神からエデンを追い出され、妊娠と労働の苦痛を罰として受けた。

妊娠、すなわち繁殖することでしか生命を継げないのが寿命ある人類の限界だ。そして生命の実と知恵の実、両方を食べた「使徒」は存在しない。なぜなら、永遠に生きられて知恵を持つものとは、神である。両方の実を食べた使徒は、神と等しい力を持つことになってしまう。これこそ、神に対する反逆であろう。

けれど多種多様な人類=リリンがいれば、互いに傷つけ合う。A.T.フィールド(心の壁)をお互いに抱き、相手を恐れてしまうから。わかりあえない。わかりあいたい。わかったふりをしないでほしい。でもわかって。私を認めてよ。と、あがくのがヒトの苦しみだった。

そこで、ヒトは神への反逆を企てた。知恵の実も、生命の実も手に入れてしまおうというわけだ。それを叶えるのが、人類補完計画。人間としての個を捨てて、全人類の魂まで混ざり合うことで、傷つけることも傷つけられることもない1つの個体になる計画だった。「ゼーレ=魂をネブカドネザルの鍵という記録媒体に移し、人の姿を捨てた者たち」はその首謀者であり、下部組織のネルフを通じて願望を叶えようとしてきた。

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その、ネルフのトップが碇ゲンドウだ。しかし、碇ゲンドウはゼーレと異なる目標を抱いていた。亡き妻、ユイに合いたかったのだ。ただ、それだけのために自分のスポンサーであるゼーレを裏切り、自分だけが上位に立つ世界での人類保管という、単独行動に出た。冬月という協力者を得て……。

エヴァの主人公は碇ゲンドウだった

この物語の主人公は、碇シンジの父親である、ゲンドウだったのだ。それが、「シン・エヴァンゲリオン」で明らかになった。

いわゆる「セカイ系」と呼ばれるジャンルでは、主人公たちキーパーソンの動きが、そのまま世界の破滅や救済にリンクする。では誰の世界だったのか、というと、碇ゲンドウだ。私たちは終始、彼の愛する女性であるユイを救うために、振り回されてきたのだ。

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とはいえ、その息子である碇シンジの視点で、物語は進む。シンジは狂言回しの役割を背負っている。そして、旧劇までの碇シンジは、父親を含めた他人との話し合いを拒絶して生きてきた。そりゃあ、いきなり父親から「これに乗って戦え」とエヴァの前で言われ、戦ったら弱いと同僚に罵倒される。はっきり言って、拒絶したくもなる理不尽なことしか起きない。

だからエヴァに乗りたくないし、心を閉ざすのもしょうがない。それでもシンジくんは根がいいやつなので「わかりあえないのはつらい、それでも他人とわかりあう努力をする世界がいい」と最後の最後に決断する。そして人類補完計画は中途半端に終わり、碇ゲンドウの目論見は外れる。

新劇の登場人物が旧劇と異なる性格をしている理由

けれど、新劇のシンジは違う。最初から話し合いを選択肢に置いている。旧劇よりも明らかに、コミュニケーションに長けている。そんなシンジを肯定せず、なぜか罵倒し続けるアスカ。旧劇のアスカはいくらどぎつい女とはいえ、もう少し気を遣える。だから「: 序」、「: 破」あたりで、みんな違和感を抱いたはずだ。

「シンジって、こんなだっけ」

「アスカって、こういう子だっけ」

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唯一旧劇と新劇を比べてキャラクターに違和感が少なかったのは、レイだけ。しかしそのレイも、「: 破」でLCLに溶けてしまう。そして、今回の「 :||」でついにその謎は明かされた。

式波・アスカ・ラングレーは、惣流・アスカ・ラングレーを母体としたクローンで、シンジに◯◯・インパクトを起こさせるために用意された体に過ぎなかったのだ。綾波もシリーズ化され、「アヤナミシリーズ」として大量生産されていた。

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画像:アヤナミシリーズのひとり、初期ロットのアヤナミレイ(仮)

アスカのセリフ「アヤナミシリーズの初期ロットか」には、綾波レイが初期以外も大量生産されていることが示唆されており、事実、「小型レイ」とでもいうべきセカンドロット以降の子どもたちも表現されている。

マリ/カヲルの正体と真希波/渚シリーズの可能性

そしてマリ。マリはもともと貞本版(漫画版)エヴァに登場しているが、碇シンジと同年代ではなく、親世代だ。碇シンジの母であるユイと同じ研究室に配属され、ユイに並ならぬ執着を見せている。

いわばゲンドウや冬月と「推しが被る」状態にあった。モテるね、ユイさん。だからマリは碇ゲンドウを「碇司令」ではなく「ゲンドウくん」と呼ぶ。

この真希波マリも、おそらくはシリーズ化されているのだろう。だから年齢がシンジ・アスカ・レイ初期ロットと近いのだ。マリはさまざまな媒体で、異なるモチーフで登場している。本人も科学者として、自分をシリーズ化し、意思を継ぐことに積極的だったとしても不思議はない。

さらに、カヲルくん。

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これはカヲルくんが生まれた場所だが、前後にずらりと並ぶ棺がある。「 :||」ではさらに、この棺が円陣になっていると示された。つまりこれは、永遠に続く円環の理なのだ。

ここでほっとしたヒトも多いと思う。ああ、あれほど愛してきたアスカはもう死んでいたんだ。このアスカは自分を裏切ったのではなく、別のアスカなんだと。

綾波ももういないんだ。「あの」綾波はとうに消えている。カヲルくんもあのカヲルくんではない。旧劇の理想は理想のまま、棺に納められたのだ。

「 :||」はタイトルどおり、これまでのエヴァが円環の理として幾度となく繰り返された、ゼーレによる世界再生プログラムの光景だったのだから。

碇シンジだけシリーズではないと言えるか

さて、ここでなぜ誰も言及していないのかよくわからないのだが、そこには当然「碇シリーズ」もあったはずではないか。シンジがいなければ、◯◯・インパクトは起こせない。こんな大事なキーパーソンの、予備を準備しないなどありえない。だからこの新劇のシンジすら、何体目のシンジかわからないのである。

そりゃあ、旧劇のシンジくんとキャラも変わるよね。遺伝子だけでヒトは決まらないのだから。こうして何人目かわからないシンジくんと、何人目かわからないレイ・アスカは恋心を抱き、何人目かわからないカヲルくんが目の前で死ぬのだ。まさに「エヴァの呪い」だろう。n番目の式波・アスカ・ラングレーが反旗を翻す気持ちもわかる。

碇ゲンドウはシリーズ化していないが、それはネブカドネザルの鍵へ魂を移し、ゼーレと同じく肉体を捨てているからである。あの世界で純粋に年齢を重ねられているのは、ミサト、リツコ、マヤ、青葉、日向、冬月、トウジ、ケンスケなどごく一部のメンバーだけだ。それも、〇〇・インパクトごとにリセットされているのなら、彼ら・彼女らだって何回目かわからない。

それって、まどマギ?

CROSS † CHANNEL?

まさに20世紀型の悲劇が、エヴァンゲリオンの世界を縛っていた。

n番目のシンジがたどり着いた答え

しかし、そこでn番目のシンジが円環の理から人類を開放した。n番目のシンジが「 :||」で「どんなに世界をやり直しても、”あの、綾波” ”この、アスカ” が死んだら替わりはいない」と気づいて、それをゲンドウに教えたからだ。

円環の理をネブカドネザルの鍵を使って生き抜いてきたゲンドウは、そこでようやく電車を降りる。そして、理は終息へ向かう。エヴァのない世界へ。


とてもいい映画だったと、思う。

シン・エヴァの批判2点と反論

シン・エヴァンゲリオンには批判も殺到した。しかしこの映画のファンとして、稚拙ながら反論したい。

批判1)マリの不自然さ

シンジにはマリと付き合う理由がない。接点がない。しかしシンジとくっつく。いやいや、ぽっと出のお前はなんやねん。というわけだ。中には庵野監督が妻を見た姿をマリに投影したからこんなお粗末な展開になったんだ、という心無い発言もあった。

だが、エヴァは神話の物語なのだ。神話のうえで考えると、マリはシンジとくっつくことが、名前からすでに示唆されている。もともと旧劇から、シンジ=神子、レイ=霊、ミサト=ミサ、リツコ=律法の子、など、キリスト教をイメージする名前がつけられていた。知り合いの名前由来である、と監督は言っていたが、それにしては名前が恣意的すぎる。

ゲンドウは言動。『新約聖書』ヨハネの福音書にある「はじめに言葉ありき。言葉は神と共にあり。言葉は神なり。よろずのもの、これによりて成る」から来ている。ゲンドウは言葉であるから、父なる神である。

キリスト教は三位一体で「父と子と精霊」が三位一体になっているから、父=ゲンドウ、子=神の子たるシンジ、そして霊=綾波レイ:綾波ユイのクローン、が家族であることがTVシリーズでは名前で最初から示唆されていた。レイの正体がこうして示唆されていた以上、マリも何らかの意味があってつけられた名前と考えていい。

マリは英語だとMaryで、これは聖母マリアとマグダラのマリア、いずれとも同じ名前に当てはまる。だから当初、私は「シンジの母的な役割を背負う者=聖母マリア」なのか、それとも「シンジと結婚する女=キリストと結婚したとされるマグダラのマリア」なのか考えあぐねていた。どっちのマリアだ? と。

これも、「 :||」で明らかになる。聖母の役割は碇ユイが明らかに背負っていたからだ。冬月は最期、マリを「イスカリオテのマリア」と呼ぶ。イスカリオテのユダは、キリストを裏切った使徒である。マグダラのマリアは、先程述べたとおりキリストの死と復活を見守り、キリストと結婚したとの伝承もある女性だ。

ここで物語を見直してみよう。マリはシンジの母親であるユイに執心している。そしてユイ復活のために、ゲンドウや冬月ともつながっていたフシがある。しかし最後には冬月・ゲンドウ側を裏切ってヴィレについた。そしてユイの魂が宿る、ユイの子=シンジを迎えにいく。

マリは、神=ゲンドウを裏切るユダであり、キリスト=神の子=神になろうとしているゲンドウの子=シンジとくっつくマグダラのマリアであった。エヴァは神話の物語なのだ。マリは宿命に導かれ、好きな女性の息子、という禁断の相手を選び取る。


批判2)田園風景の不自然さ

そして次の批判は「なんだあの唐突で不自然な自然は?」だろう。「 :||」を見た方は思ったに違いない。畑仕事をするレイを見て、あんなハートフルな田舎ありえないよ、と。うんともすんとも喋らないプラグスーツの女子中学生なんて、生き残りが集まる村で排斥の対象にしかならないよ、と。

そのとおりだ。むしろ「食料だって限られてるのに、あんな穀潰しを連れてきて」と、かくまったトウジが村長にいびられるのが現実だ。火垂るの墓みりゃ分かるでしょ?

だが、私はあそこがヴィレの作った村であり、しかもミサトが自分の息子を配置するほど拠点として大事にしているところなのだから、ミサトがレイやシンジを迫害しないよう、村の者へ根回ししていた可能性が一番高いだろう。大人の世界って残念だ。

あそこで本当の村社会である、現実があってはいけなかったのだ。なぜなら、現実はレイやシンジに冷たすぎるから。あんな集落に現実で放り込んだら、現実のシンジくんは間違いなくフォース・インパクトで世界を滅ぼしている。ヴィレがそれを望むはずもない。

だから、虚構でも優しさが必要だったのだろう。

旧劇は「現実にお返り」新劇は「現実はそこまで悪くないよ」

さてさて。「現実にお戻りよ」というのが旧劇のメッセージだった。劇中では我々観客がいきなり表示されたり、線画でラフのままカットが出てきたり、「これはアニメなんだぞ。現実とは違うんだ」と強調する表現が多かった。

新劇はどうも「現実はそこまで悪くないよ」と言いたいのかもしれない。現実の背景とアニメのキャラを混ぜてみたり。庵野監督の実家と、エヴァのシーンをごっちゃにしてみたり。

現実って、アニメの延長にできるくらい悪くないかもしれないよ。だって、マリみたいな女性が現れてくれるかもしれないよ。村社会って、そこまで排他的じゃないかもしれないよ。大人になるって、悪いことじゃないかもよ。と。

だから、とても良かった。


ここから先は私の個人的な思いだけを書くので、カンパしてもいいかなって方だけ有料部分をご覧ください。考察はここで終わり。

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