20230514

自分の人生って「多分ここら辺が天井でこれで満足しよう」ってポジティブにとらえられるのっていつからなんだろう。まあ、こういうことを考える時って結局曖昧な自分の身の丈ってものが様々な変数で確定しきれないから結論を先延ばししてる結果の判断だと思うんだけど、今は色々な視点で打ち切り!って感じで自分の可能性や身の丈なんかを断定しちゃうというか、そういう一種の諦観みたいなのめっちゃ蔓延ってるなと思う。

気持ちは全然分かるし、何時までも自分の可能性を見出してる"つもり"の人たちが客観的に見てまあまあ悲惨なのも分かる。ただ、そんなに早々に諦めちゃったら今自分がやってる事の無意味さが身に沁みちゃった時本当にどうしようもなくない?と思う。今自分がその立場に立った気持ちになった瞬間パソコンの隣に置いてある、昼休みわざわざ使って聞いた保険会社の資料とか全部無駄に見えるもんな。

もちろんその時その場での苦痛を減らすためのコストを軽減する投資ではあるので実益ある行為ではあるはずなんだけど、本当に諦めちゃった時って1か月後のこともそんなに考えたってしょうがねえって気持ちなのに何時患うかわからない大病に備えてお金を毎月払おうなんて思うかね?という話で…。

自分に期待するって結構難しいことかも。他人に期待するのは結構ハードル低い。見えない部分もあるから。でも自分に期待することって大体の行動指針がやることもやらないことも理由が自分の中である程度ハッキリしてるから「客観的に良いとされる方向の行動の類に関してどれだけ自分の意思で実行できるか」ってのは大体試算できちゃうわけで…。でも思春期なんかむしろ自分は諦めまくる側だったから今こういうマインドになってるのってある意味奇跡かもしれん。何でだろ?

考えられる原因は色々あるけどまあ今日は夜も遅いし(寝たい時間を30分ほど過ぎている)また今度にしようかな。ただ、この考え方の転換も、自分の考える「年相応」に"値しよう"とする方針による行動なのは間違いない。


忘れそうなので追記。
当時「やれやれ系」の主人公の作品を浴びていた時期、そういう言ってしまえばスカした感じの人間(でもある程度の主義主張はあってそれに沿った行動や言動を実行する)の物語に感化されて思考の枠組みもそれに沿ってやっていった結果、結局大学と社会人と、その他諸々本当の人間力というか、社会や世間である一定の強度を持った人間っていうのは全然違うんだっていうのをジワジワとボディに蓄積されて行って、そこからかな…。

早く寝たいので細かい話はまた後日機会があったら書きたいんですけど、大学の時はオタクサークルだけじゃなくてフツーのいわゆる大学生がやってるサークルにも入ってて(そういう表現もどうなんだ)、そこでやっぱ「あ~自分って大学生になったけどいわゆる大学生らしさっていうのは本当に無いまま、大学デビューっていうようなチャレンジもないまま来たな」って思ったんですよ。いや、当時は思ってない。けどやっぱそういう気持ちがあったんですよ、決定的なところが違うって。

まあそのサークルはそんなに顔出さなかったとはいえ、優しい人多かったしそんな邪険にされたわけでもないですけどやっぱ居心地がめちゃくちゃ良かったとは言えなかったし、なんか僕も変なところ意固地だから上手く回ってなかったりするところを「もうちょっとうまくやればいいのに」ってところにあえてコミットもせず、遠巻きで見てて。そういうスカした根性が思春期に育てた大きな根っこが自分の中で影響してて。

じゃあ今思い返してそうしてた方が良かったと思うかと言われたらそうじゃないんだけどまあ、普通の人はそういうことを色々と経験していく中でそれなりの常識の範疇の価値観とかをすり合わせながら身に着けて行って…みたいなの、やらなかったな~って。それはせっかく機会があったのにもったいなかったなと今は思います。性格上合うかどうかは別として。

そういう後ろめたさというか、スカした人間って結局何もやらんかったじゃんっていうのが自分の中に経験としてあって、それで逆に「むしろ無理したら本末転倒だけど出来る限りのことは挑戦してったらいいじゃん」って考え方になったような気もするんだよね。あとこれは完全な同族嫌悪だと思うけど何もやらんスカしたやつ見ると普通に気分悪いのでそういうのもある。

あとは「やることやらなきゃ肩身が狭い、社会人の仕事」の影響も大分ある気がする。めちゃくちゃ自己暗示してたもんな。この話し始めたら本当に明日の朝起きれなくなるのでこれはまた別途…。

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