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サブスクで夕立は聞けない

日々インプットは怠らないようにしている。

毎日何か一つでも未知との遭遇を経験するようにするのがここ最近のテーマだ。

色々なものに触れ、見聞きし、考えてばかりいると煮詰まってくるので、月並みではあるが日記を書くことにした。

最近外を出歩く時イヤフォンを外すようにしている。

もちろん音楽は好きだし、折々にその素晴らしさを感じることも少なくない。

これは「未知に対してオープンでありたい」という最近の姿勢の延長なのだが、感覚器官としての耳に物理的にとても近いところから発せられる電気信号の波からなる聞きなれた音楽よりも自分を取り巻く世界とそこに潜み得る未知に対してオープンであろうとする意志のあらわれとして、私はイヤフォンを外した。

初夏である。

日が落ちてきたころに銭湯に行こうと家を出ると、この時期特有の肌にまとわりつくような湿気と、コンクリートが濡れたような雨の兆しの匂いがした。

道中、商店に自転車を置き一服していると、無数の雨粒が道路の舗装を叩く音が徐々に大きくなるのが聞こえた。

松虫だか鈴虫だかの鳴く声が遠くない茂みから聞こえる。

私はそれが羽虫の鳴く音だとは知っていても何の虫だか知らないな、と気づき、改めて世界には如何に知っているつもりの未知が多いかを思い知った。

サブスクという言葉をよく耳にする。

音楽も映画もとても身近にアクセスできる時代だ。とても便利だと思う。

見たいものが手に入る、聞きたいものがすぐ聞ける、そういう姿勢でサービスを利用する分には結構だと思うし、巡り会い得なかった作品に触れる機会を与えてくれるという意味ではとてもありがたい仕組みだと思う。

ただ

与えられるものをなんとなく聞き流す、見流すような便利さの享受の仕方をしているとなると、サービスに登録している世界中の人間が皆判を押したような趣味嗜好になってしまうとすればなんと面白みのない生活だろうと私は思ってしまう。

目の前に出されたエサを食べて満足するのは飼育されているハムスターと同じ消費体系ではないか。

散歩をするおじさんの陽気に歌う鼻歌や、終業後のタクシードライバーが営業所で交わす言葉に滲み出る世相、自分の漕ぐ年季の入った自転車の軋むスポーク、クラウドに上がっていなくて世界中に自分にしか知覚できない音が、そこら中に溢れている。

勿論これは私が何を面白いと思うかという趣味嗜好の話なので、みんな各々好きなように聴覚器官を使えばいいと思う。

ただ私はしばらくはサブスクはしないつもりだ。

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