ぴえん考
何かと生きにくい世の中だと思う。
いや、それぞれの構え方次第だしいつの世もある程度は生きにくさがあったろう。
ただ間違い無く言えるのは、インターネット社会に生かされている現代人は先人たちが味わったことのない肩身の狭さを感じているということだ。
人間関係とそのコミュニケーションは肌身離さず持ち歩くスマホに伴いいつ何時も最優先事項然と生活に割り込んでくる。
’繋がっている’ことが常であり、誰の目も、なんの体裁も気にしなくて良い時間というものはかつてないほど見失われやすいように思う。
SNSは便利だが、数多の人間の一意見や主張が、まるでこの世の絶対正義であるかのように横溢していて、多種多様雑多の凱はひどく頭を疲弊させる。
つながりの美談は社会通念になり、人から独りの時間を容易に奪っていった。
「ひとりごと」でいいはずの「つぶやき」すら誰かに見られることを余儀なくされ、少しでもコミュニティの一員として求められる像から外れた弱みを漏らそうものなら陰口の格好の餌食になりかねない。
明るく楽しく円満に
そんな同調圧力を感ぜざるを得ない息苦しさが蔓延るSNSで、ポップに自身の身に起きた悲劇を自嘲するスタイルとしての流行に思えてしまう。
もちろん、言葉は一度’流行’になると幅広く意味を変え用途を広げていくのでそうではない使われ方も多々あるだろうが、
「ぴえん」という新語を目にすると「自らの傷すらかっぴらいてエンタメにしなくても、スマホを置いて泣いていい時もあると思うよ、と感じさせられる場面は少なくない。
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