「個別ケア」と「画一ケア」と「選べないケア」
「個別ケア」というモノについて考えてみる。<ちょっと必要があり。
— 曽木 達|kaigo×kaigo ツナガル代表 (@kuroyagi55) June 18, 2019
そもそも個別ケアとは。
少し書いてみたけど、140文字じゃ無理だから、これはnoteかな。
「個別ケア」「看取りケア」「〇〇ケア」
言葉から人が思うイメージはバラバラ。
個別ケアの「これはちょっと自慢だぜ!」ってある?😊
デジタル大辞泉 - 個別/箇別の用語解説 - 全体を構成しているものを切り離した一つ一つ。個々別々。
個別ケアをGoogleで検索してみても、明確な答えはない。ユニットケア=個別ケアとしている所も多数あった。
個別が個々別々であるならば、その反対は集団ケアなのか。
これは違う。人が個性を活かして生活するには集団は欠かせないものであって、個別は集団を否定しない。個別=ぼっちではない。
あえて個別ケアの対義語を探すのであれば画一ケアか。
従来型の特養や人員的に厳しいところでは、リスクマネジメントや人的リソースの限界から、まさに画一的なケアを提供せざるを得なくなっている所は少なくない。
では既に画一ケアになっていることろを個別ケアにするには、どうすればいいのか。
その画一をひとつずつ壊していけばいいのか。
排泄介助の時間は自由に。食事の時間も自由に。入浴も自由に。
なんだかいまひとつ腹落ちしない。
それで個別ケアと言えば、そうやって画一をどんどん減らしていけば個別ケアなのかもしれないけれど、なんとなくそこに楽しさも嬉しさも感じない。
介護職としての業務を考えても、画一ケアをやってきたフォーマットの中で、少しずつ画一性を減らして個別の希望を叶える形にしようとしたときに、多くの介護職がまず感じるのは「利用者さんが個別に生活できて嬉しい!私も介護をしていて楽しくなった♪」とかではなく「画一されていても大変なのに、事によっては個別の希望を聞くとかどんだけ業務増だよ」とかではなかろうか。
つまるところ、画一ケアの施設からひとつずつ画一を減らして個別に近づける、という手法は、結局「画一ケアの施設でやる、できる範囲の個別ケア」なのではなかろうか。
それは個別ケアと言えるのか。
では「個別ケアの施設でやる、どうしてもできないところだけ画一ケア」ならいいのか。
いいかも。全て良いとは言えないかもしれないけど、前者よりはだいぶマシな感じ。
たかが順番。されど順番。
そもそも個別とはなんなのか。<最初に戻る
私は個別に生きている。
自分ではそう思っている。
でも毎日決まった時間に仕事に行くし、他の職員も同じく毎日決まった時間にくる。画一的だ。
仕事の日はお昼ごはんの時間も画一だし、献立もみんなと同じ。
ごはんは選べたら嬉しいけど特に不満もない。
家に帰ったら夕飯だけど、時間はだいたいいつも同じ。
まだ若くて健康な身体で生活していても、画一性なんてそこかしこにあるし、自らそれを選んでもいる。嫌々選んでいるわけでもない。
もちろん、個別に自由に時間を使うこともある。
つまり、個別行動=幸せ、ではない。もちろん画一行動=幸せでもない。
どうやら人はどっちも選んでいる。
人は社会の中で自分を位置付けて、人との関係の中で過ごす。
そういった中で、画一的な行動の方が良いな、と思うことだっていくらでもあるわけだ。
では個別ケアとはなんなのか。
なんのためにそれを提唱するのか。
「自分の人生を選べる」
私は「自分の人生を選べる」ことこそが、個別ケアではないかと思う。
では、例えば特養に入居している利用者が何を「選ぶ」のか。
トイレの時間か。入浴の時間か。食事の時間か。
それもそうかもしれない。
でも私たちは、もっともっと、日々たくさんのことを選択して生きている。
仕事選びひとつにしたって散々悩む。
悩んで申し込んで採用されても、合わないと思えば別の会社に移ることもある。違う業種に移ることもある。
趣味も遊びも日々選ぶ。着る服も食べるものも会う人も、選びに選んで生きている。
施設利用者はどうだろう。
毎日毎日おしぼり巻きの手伝い。簡単な折り紙、パズル。TVに新聞。ベッドでひたすら寝る。
この中から好きなものを選ぶのが個別ケアだろうか。
生活歴から、過去にやっていたお仕事に因むものに誘ってみる。
大いに素晴らしい。やるべき。
でも機能的に困難かもしれない。日々できるようなことじゃないかもしれない。
やってきたことが難しくなった時、私たちは転職できる。
利用者は、転職するほど「選択肢」があるのだろうか。
利用者が選べる選択肢は、日々の中にどれだけあるのだろうか。
「自分の人生を選べる」ことが個別ケアじゃないか、と書いた。
であれば、私たち介護職は、利用者が自分の人生を選べるように、その選択肢を創らねばならない。
個別の人生を最後まで選んで生ききれるように、利用者を社会資源にすべく施設内や地域を、またその関係性をデザインしないといけない。
昔やっていた仕事とは関係ない役割。
やったこともないこと。
でも「これならやってもいいかな」「これなら私も役に立てるかな」と思えることを、創出していかないといけない。
役割だけじゃない。
楽しみも、選べないといけない。
日々の楽しみ、ごく稀にあるイベントの楽しみ。
私たちは、日々スマホゲームをやったり、友達と外食したり、時には旅行に行ったり、みんなでクリスマスを祝う。たくさん選んでいる。
そして当然、生活の基本的なことも。食事、風呂、排泄等々。
選択肢の中に、みんなで揃ってやる画一的なものがあったって全くかまわない。それを選ぶ理由や意思決定こそが、個別だから。
もちろん、死に方も選べるべき。
施設は、正々堂々と、本人が「これなら納得できる」という死への過程や送り方を創らなければいけない。
自分で「こう死ぬ」と選んで、そのゴールまで生き切ってもらう。
本人が喋れないのであれば、家族に「本人なら何を選んだか」を聞かなければいけない。
そしてここまで書いて、気付いたこと。
個別ケアの反対は画一ケアではない。個別ケアの反対は「選べないケア」だ。
私は、選べないケアの反対側にある、選べるケアと、その選択肢を創っていかなければいけない。
まだまだ選択肢が少なすぎて、少なすぎるが故に画一的になってしまっている施設の中で、理解者を増やし、仲間を大切にし、何時間でも何日間でも話し合って「選ぶに足るもの」を創ったり、外にあるものとの関係をデザインしなければといけない。
でもきっとできるはず。なぜなら、既に「できる」ことを形にしているステキな人たちがたくさんいるから。
最後に、個別ケアについてこんなに長い文章を書くまでもなく、既に形として目に見える、私が大好きな場の紹介をします。
そしてきっとまだ見たことがない文化拠点を見せてくれる「ほっちのロッヂ」
他にも大好きなところはたくさんあるけど、今日はこの辺でおしまい。
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