施設内転倒事故から見る「事故」と「対策」の現状
以前勤めていた施設で、とある女性利用者が転倒した。
転倒したといっても、膝から軽く崩れてお尻を床についた程度のもので、怪我もなければ本人も気にしていない。
認知症があることもあり、もう覚えてもいない。
しかし、崩れて床にお尻がついたことに変わりはないということで、施設では事故として処理された。
事故が起こると事故報告書を提出しなければならない。
事故報告書には「対策」の欄があるが、施設利用者であれば誰であれある程度のリスク管理はされているわけで、事故の発生でその方法が間違っていると決まるわけではない。
なぜなら、人が生きて行動している以上100%のリスク管理は不可能だから。
なので、そのままの対策を続けることがベターであることも少なくない。
しかし、これは施設ではよくあることだが「事故が起こった以上何か変えなければいけない」「きちんと対策をした、という形をつくらなければいけない」という考えに囚われて、何はともあれ何らかの変更をしたがる人は多い。
変更を加えた結果、よりリスクが高まり新たな事故が起こることすらある。それでも「対策しました」と上司に、相談員に、家族に、施設長に、いろいろな人に建前を通すために何かを変えてしまう。
今回の事故報告書の「対策」の欄には、環境整備が挙がっていた。
事故があった居室内を、より安全に整備する、ということだ。
実際の整備された部屋を見て、私はげっそりした。
家族が持ってきてくれていた2人掛けのソファは後ろ向きに壁付けされ、背もたれを手すり代わりに。
ベッドもソファに連ねて最大限手前に置いてあり、部屋の奥には行くこともできない。
入口からベッド、トイレ、洗面台へ行くためのスペースだけ2畳分ほどが移動できる範囲。寝る、トイレ、洗面台以外何もできない。
これは、人が住む部屋なのか?
この変更がされる前は、ベッドは上変の壁に横付けされ、ソファも座れた。女性はよくソファで雑誌を読んでいた。
一人用のソファもあり、そっちに座って寛いだり、外を眺めたりしていた。
でも、もうできない。
この部屋には、もう暮らしがない。
認知症があり、反対するタイプの人でもないので、本人の説明すれば「はい」と言うだろう。それで、今までの暮らしを失う。
これが、介護職や管理者が選んだモアベターだ。
なぜ、こんなことになってしまうのだろう。
最初の方に書いたが、この女性は軽く崩れただけで、思いっきり転んだわけでも怪我をしたわけでもない。
過去に尻もち程度はあるが、大きく転倒したこともない。
でも「事故」と区分されたことによって、施設の力学によって勝手に暮らしを変えられてしまった。
この変更が「心から嬉しい人」は一人もいないだろう。
素晴らしい変更だ!と褒めたたえる人は誰もいない。
むしろ、自分が転んだ後に勝手に部屋をこんな風にされたら、多くの人は怒るだろう。
転ばないためだと言われても、納得しないだろう。
自分がされたら嫌な事なわけで、それを考えれば誰も嬉しくはないのだ。
例えば1か月後にとてもとても大切な予定があり、そこまで絶対に怪我をするわけにはいかないから「その目標のための処置」とかではないんだ。
ただ、事故だから。対策だから。その先に何の目的も喜びもない。
しかも、この部屋なら100%転ばないなんて保証も、全くないのだ。
ただ、そういうことを全部考えずに、とにかく「対策」をする。
建前さえできればいい。現実に対する麻痺状態だ。
これで事故が完全に防げないことは、本当はみんなわかっている。1分考えればわかるのだ。
それでも「事故」には「対策」が付きもので、対策を考える以上「何か変更」をすることで、自分たちはやるべきことをやりました、という立場になりたい。責任の追及から逃れたい。
本人が怪我をしないためではなく、誰も責められないために、認知症の利用者の暮らしを勝手に変えるのだ。
いつまでこんな介護を続けるのだろう。
いつまでこれを「介護」だと思うのだろう。
介護は誰のためのものなんだろう。
こんな介護を続けながら「なぜ介護職は増えないのか」なんて話しているのが現状だ。
人の暮らしを壊すような仕事をしたいと思う人はいない。
そこに気づかなくなるくらい鈍感になってしまう仕事に本当の楽しみを感じる人も、まああまりいない。
この対応を「でも転ばせないためだし、仕方なくない?」で済ませてしまう先に、介護の楽しみはないし、介護職の増加もない。
こんな介護はもう、終わりにしないといけない。
介護職は、本人が望む暮らしのために、主体的に生きることを支える。
死というゴールまで、伴走して支え続けるんだよ。
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