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【読書ノート】「炎の陽明学-山田方谷伝-」

読んだ本の気になる部分を書き留めていきます。
今回採り上げる本は、「炎の陽明学-山田方谷伝-」著.矢吹邦彦です。

COTEN RADIO『【番外編 #66】戦国の貴公子 宇喜多秀家 ~夢託されし秀吉チルドレンの生き様~(後編)【COTEN RADIO】』を聴いている時、深井さんの

直家とか秀家が取り立てられるじゃん。秀吉から。
特に秀家かな。この場合は。
あの時に、僕が中国の故事を読んでいると、辞退しろっていう教訓が出てくる。
ここで受けてしまうと、数十年後にこういくことが起こるから、辞退しろという教訓が中国故事でちゃんと出てくる。

【番外編 #66】戦国の貴公子 宇喜多秀家 ~夢託されし秀吉チルドレンの生き様~(後編)【COTEN RADIO】

というコメントがありましたが、そういえば、山田方谷も、主君の板倉勝静が幕府の要職である寺社奉行に就任することを諫めていたなと、この本のことを思い出しました。

本書切り抜き

先見の明と言うにはあまりにも慄然たる発言が方谷の口から飛び出したのはこの時の事であった。津山藩士植原以下四名を慰労する酒宴の席で、突然、方谷は歯に衣を着せずと徳川幕府崩壊の予言を公開したのである。酔いもふっとぶ、恐れを知らぬ言葉に酒席にいた誰もが一瞬息をのんだ。
「幕府を衣にたとえると、家康が材料を整え、秀忠が裁縫し、家光が初服した。以後、代々襲用したので、吉宗が一たび洗濯し、松平定信が再び洗濯した。しかし、以後は汚染と綻びがはなはだしく、新調しなければ用にたえない。」

「炎の陽明学-山田方谷伝-」 p.181

儒教から学んだ歴史観と独自の直観としか言いようのない方谷の洞察力は、すでに江戸幕府の瓦解を正確に見通していた。その余命はいくばくもない。二年前に津山藩士植原六郎左衛門を迎えた宴席で突然、徳川幕府崩壊の見通しを歯に衣着せずに発言したのは、単なる酒の上のざれごとでは決してなかった。滅亡の運命しかない幕閣に勝静を深入りさせてはならぬ思いが方谷の真意だった。時代に先がけた、あまりに鋭敏な方谷の警報が早鐘を激しく打ちならしていた。誰にも聞こえない。聡明な勝静の耳にもとどかない未来の江戸幕府の断末魔のさけびであった。

同書  p.190

この後の七年間に、何度となく方谷は勝静に対して幕閣を去るように進言することになる。たが、幕府の中枢にのめりこみ、やがて備中松山藩を見捨てる勝静の未来の姿が、すでに文久元年(1861)の四月、松山へと帰る病みあがりの方谷の脳裏に絶望的にきざまれていたのである。

同書 p.312

宇喜多秀家のケースとは異なりますが、主君の出世を大局的な視点から諫めようとする山田方谷の姿がこの本の随所に書かれています。

書き留めておくこと

激動の幕末を乗り越え、主君の勝静と方谷は再会を果たし、明治10年、山田方谷は73歳で生涯を終えています。

学問を修め、学問によって身を立て、学問の実践によって藩の財政を立て直し、藩の富国強兵を実現しながらも、激しい時代の流れの中で「誠心を立てる」ことを考え、行動し続けた儒学者、山田方谷。

大きな時代の流れの中で、人は無力だと考えることも出来ますし、学問とその実践から得られた大局観によって主君の命と領民の生活を守ったとも考えることが出来る山田方谷の人生。
興味深いです。

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