しとしとと

おいしいですね。
しとしととした彼女のつぶやきは、物理学的にいえば全く通らない。しかし一言一句違わず僕には明瞭に入ってくる。お酒を飲んで騒ごうという会にあるまじき静黙に、確かに反芻して何度もすんなり心の中に入ってくる。憂いをいくつか秘めたような笑顔、風が吹いたら飛んでしまいそうな華奢な体、さてどう扱ってしまっても壊れてしまいそうな相手に何を話そうか。
「それ、1口…、……くださいよ」
既に僕が口をつけた酒だ。そういうことを気にしない相手なのかもしれない。泣いてしまいそうな悲痛さはない。しかしどうにもなんだか、こんななんてことの無い意味の無い言葉で場を繋いでしまいたくなるほどに、心が落ち着かない。
カルーアミルク。コーヒーのリキュールをミルクで割ったもの。つまりはコーヒーの果実酒というわけだが、口当たりはまろやかでアルコール度数もそれほど高くなく、味はほとんどカフェオレなので非常に飲みやすい。ポピュラーなカクテルの1つで、だからつまり、飲んだことがないはずなんてない。
強いて言うならば僕が既に1口飲んだカルーアミルクを飲んだことはないだろうというだけの話だが
それを欲しがっているんだ。情けない話だが少しドキリとする。どうなってしまうんだろう、それを1口飲んだとして、僕らの距離感はこれまでと同じだろうか。もし相手が僕と同じことを考えているのなら、指先は触れてしまうだろうか。
鏡に映る自分の顔をみたいが鏡は無い。代わりに相手の顔だけがある。人は鏡だ。その反応を見て、今の自分の姿をおぼつかないながらも察する。酒が入っていてよかった。酒が入るとすぐに顔が赤くなる体質でよかった。言い訳を盾にしているのは自分がみっともない人間だと再確認するいい機会だが、今はそれでいい。それでなきゃ耐えられていない。
まさかこれほど乱されるとは。眉を釣りあげ、当惑しているぞと表情で語りながら許可をだす。
「別に、いいよ」
強がっている自分がいるのが分かる。僕は緊張していませんよという緊張している宣言だ。
意図的だ。あえて口をつけた方を反対側にして、だから相手に自分の唾液が入り込まないような配慮をして、少し後悔しながら…そちらを相手に向けた。逃げた。既に半回転させたグラスをもう半回転させないほどには非常識さに欠けている自分を恨む。
当然相手もそのままグラスを口に傾け、カルーアミルクを少し流す。
あぁ。やってしまった。相手もそう思っているといいなぁ。

こと。グラスを置く音。空洞に響く。カルーアミルクはもう残っていなかった。反響が耳奥で旋律を奏でる。唇が、少しだけ濡れている。口紅を付けないままの少し赤黒さを孕んだ柔らかなその区域と、零れてしまいそうな後悔を舌ですこし拭き取る。耳に届くほどの音は出ていないはずだが確かに、オノマトペにするとペロリという音だが言語化はできない何かしらの音、空気の衣擦れ、何かと何かが摩擦する雰囲気があった。
「おいしいです。」
もう何かを話す前から、その後に何まで話すかを理解していた。
「全部飲んじゃいました。」
分かっている。分かっていてその言葉を受け取った。もう、俺のカルーアなんで飲んじゃうの。という、いつもの茶化すような言葉を上手く飲み込んだ。
「困ったな」
特に何も言わずに次のカルーアミルクを注文しようと端末に手を伸ばす。手を広げたままで。勘違いしてくれ。そう思いながら。
その手に応えて、相手の手が伸びてきた。上手く勘違いをしてくれたのか、勘違いをさせようと言う意図を知りながら、か
つ、と触れる
する、と握る
今までの一瞬が無限大に感じられた時とは次元を異にするように、次々と進んでいく。
指先が少しだけ絡み合う。
普段は怯えを備えた彼女の唇の緩みを見逃さなかった。
壊してしまわないように、なにも変化を起こさないように、く、と引き寄せる。
何も言わず隣に来てくれる姿に気持ちを抑えるのに必死になりながら、手をしっかりと握った。
次の瞬間にはもうお互い全てを理解していた。唇が触れたか触れていないかの距離になる。緊張のためなのか酒のせいなのか定かでは無いが実際に触れたかどうかは分からなかった。しかしどちらでも良かった。そのどちらであってもそのどちらでもあるような行為であったからだ。
また少し距離をとって普通に話す程の距離から、僕は卑怯だ、そう思いながら言った。
「好きだ……」
言ってしまった事への後悔と嬉しさと後ろめたさ、ついに距離感を壊してしまった、僕の方から。
焦点があわない。恥ずかしい。そうして言葉はかえってくる。
「……わたしもです…」
ありがとうございます。空気は振動していなかったが、確かにその唇の動きを垣間見た。もう僕は彼女の唇に詳しくなってしまった、そして、もう少し知ってみたい。みたいな事を思いながら、また少し引き寄せた。

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