ある日の午睡(2)

目が覚めてからしばらく経ち、直に夜になった。いつもなら既に下に降りて夕飯をかっ喰らっている時分だが、あの夢を見てから母を見ることに若干の恐怖心を抱いている。しかし腹はかつてないほど空いており、今にもなにか腹に入れてしまわなければ死んでしまうかと思うほどだった。そこで、まだ夜なのか、と時間の緩慢さに呆れる振りをしながら下へ降りた。自分を誤魔化さなければ動くこともままならない。階段をゆっくり降りる。1段。階段の合計は21もある。2段。全く時間は緩慢だなぁ。3段。ああ、腹が減った。4段。今日の夕食はなんだろう。5段。ガッツリしたものでも食べたいな。6段。唐揚げとか豚カツとかはどうだろう。7段。いやカレーやシチューもいいなあ。8段。母がご飯を作る姿は容易に想像できる。9段。リビングの奥で料理を作っている…。10段。こっちを向いた…。11段。母さん、今日は豚カツが食べたいな…。12段。母が何か言った、よく聞き取れない…。13段。え?母さん、なんだって…?14段。……ったのに…。15段。よく聞こえないよ、母さん…。16段。…まれなければ良かったのに。


突然足が止まった。それに相反して冷や汗は溢れ始めた。目玉がぐるぐるしている。空気が泥のように重い。拍動も強くなる。呼吸が浅くなり、手すりを掴む手が震え始めた。こんなに自分は小心者だったのかと思い知ると同時に、本来なら存在し得ない、僕の母への恐怖心が僕を支配していく。心地の悪い、とげとげした胃液で胃が満たされていくような気がした。逆流するのはどうにか防いだ。しかしなんだろうこの感情は。たかが夢の出来事なのに、何故ここまで不安になるんだろうか。あれは夢だと割り切れれば良かったが、なんだか夢が現実になる気もした。あと5段しかない階段が100も200もあるように思われた。落ち着こう。落ち着け。これは鉛の杞憂が僕を押し潰そうとしているだけだ。所詮杞憂に過ぎない。勇気をだして足を振り上げた。17段。深呼吸を、1回、2回。18段。3回、4回、5回、6回。19段。7回目の深呼吸をした時点で少し立ちくらみがした。酸素を吸いすぎたのだろうか。ふらっと倒れるような勢いのまま、20段。母が見えた。見えてしまった。リビングで夕飯を食べている。もはや想像なのか現実なのか区別が付かなくなっていた。こっちを向いた。21段。母が噛み砕いている最中の豚肉を見せながら口を開いた。
「生まれなければよかったのに」


目が覚めると、僕は、自分のベッドの上に横になっていた。
しばらくの間呆然と辺りをぽかんと辺りを見渡していた。何が起きたのかが理解できない。今までのは全部夢だったのか?夢を見て、起きて、恐怖して、それから階段を降りる際にあれこれ思案したのも、全部?
しかし現実だとしても、母1人では僕を階段下からベッドまで運ぶなど出来るはずがない。じゃあ、他の誰かが?それか僕が無意識に階段を上がって寝転んだということは?
…頭が痛くなってきた。考えても分からないことだらけだ。何故か空腹感は無い。ので寝よう。そうすることとしよう。眠気は全くないが、布団に入ればきっと眠れるだろう。夢のこともあり、どうにも寝ること自体忌避したいところだが余計なことを考えるよりは寝た方がいい。朝起きれば大概のことは忘れてすっきりするものだ。ベッドに横になり、布団を頭まで被った。しかし一体何故僕はベッドにいるんだ…どう考えても有り得ない。夢にしては余りにもリアルすぎた。動悸の1つ、階段の感触、母の口内の豚カツの様子、どれをとっても事細かに説明出来る自信がある。であれば、現実だったと思う方が納得が行く。もし誰かが来たとしたならば、誰だ?父はとうの昔に死んだ。叔父や叔母も県をいくつか跨いだところに家がある。事前に来ていたら連絡くらい寄越すだろう。やはり母か?いやそれこそ有り得ない。今年50になろうという人間だ。いくら高齢化社会とはいえ、一個人の筋力まで増えるなどという道理はない。そもそも母は力仕事の類は全くと言っていいほど出来ない。事実13かそこらの年齢の僕に力が劣っていた。それから力仕事は全て僕が処理していた。
ではやっぱり僕が自分で?───と、ここで異変に気付いた。眠気が来ないのだ。いつもなら布団に潜ってから遅くても5分以内には眠りに落ちていた。が、既に10分ほどが経過しようとしている。余計に目が冴えてきた…。夜寝れない時にはろくなことがない。この布団に入ればすぐに寝れるという特殊体質、一見非常に便利に見えるだろうがそうではない。これが成り立っているのは今の堕落した生活ありきでの話だ。本来の一般人が行う勤勉な生活内では、こんな体質は足枷にしかならない。と思う。僕の怠惰は、ともすればこの体質のせいでは無いだろうか?中学の時はなまじ勉強ができた。勉強ができたと言うより勉強しなくてもテストで点が取れた。だから地元で1番の高校をめざした。だが案の定勉強に精を出さずにのらりくらりと過ごしていたため落ちて第2志望のまあまあなところに行ってしまった。そこからすでに僕の人生は斜め下を向き始めたと思う。勉強出来なかった理由の一つがこの睡眠なのだ。しようと思ってもすぐに寝てしまうこの奇癖を何度疎ましく思ったか分からない。こんなものが無ければ、そして僕の頭脳をもってすれば、順当に努力すれば、今頃僕は昼寝などに勤しんでいる暇もなく、僕の学びたい学問に精を出して心から励んでいたことであろう。こんな癖さえ無ければ。
あぁ…。
本当に。
こんな風に言い訳出来たら良かったなぁ。
結局不真面目に生きる人間は、環境が変わろうとも不真面目なのだ。仮に僕の睡眠時間が半分になろうときっと僕は変わらず、今日に至るまで家に居ただろう。全部言い訳なんだ。都合のいい、体のいい、耳障りだけ意識した言葉のような願望なんだ。結局全て僕のせいだ。今ここに落ちぶれて寝ているのも大学に落ちたのも二浪してるのも。
だから…本当に寝れない時にはろくなことがない。
こんな無為なことを考えて、ただ僕の精神を摩耗させるだけなんだから質が悪い。でもそれも僕が悪いだけなんだから────あぁ。本当に。

「生まれなければよかったのに。」

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