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ピコピコ中年「音楽夜話」~渋谷系「ピチカート・ファイヴ」とか

☆ピコピコ中年’sメモリー

この時ばかりは山形県民であることを悔やんだ。

1993年、めったにお目にかかれないような事が山形県で起こる。ローカルテレビ局のネット局変更である。

地方の地上波テレビ局は、首都東京のどのテレビ局をネット放送するのかをそれぞれ選択して開業する。つまり、○○県の○○テレビ局はテレビ朝日を放送します、○○局はフジテレビです、などなど。

耳にしたことがある方もいるかもしれないが、首都東京のNHKを除いたテレビ局は「キー局」と呼ばれ、各都道府県の地方局は特定のキー局と専用回線で結ばれる「ローカル局」と呼ばれている。

キー局の番組を専用回線でネットして放送。天変地異や大事件などの緊急速報が入った際にはキー局の「支局」的な立ち位置で動く。そんなローカル局において、ボス・上司・親分的な立ち位置のキー局を変更するなんてことは、各種投資的な側面からも、義理人情的な側面からも、そうそう起こりえる事態ではない。

しかし、山形県ではそれが起こったのだ。

1993年(平成5年)4月1日 - フジテレビ系からテレビ朝日系に変更し、テレビ朝日系のフルネット局となる(FNN・FNSを脱退してANNに再加盟)。大半のフジテレビ系の番組が山形県内テレビ局で放送されず。
YTSで放送されていた日本テレビ系の番組の全てがYBCへ移行。ごく一部のフジテレビ系番組(『サザエさん』など)は、TUYに移行。逆に、テレビ朝日系の番組がYBCとTUYから移行し、既にYTSで放送されていた番組(『徹子の部屋』など)と併せて一本化された。

ウィキペディア フリー百科事典「山形テレビ(YTS)」の項目より抜粋

そう。山形県という地域に特殊性があったのか、ゴチャゴチャした大人の事情で、フジテレビ系のテレビ番組が放送されなくなってしまったのである(現在はフジテレビ系のネット局が開局したため解消済)。

1993年のフジテレビと言えば、(昨今の状況からは想像できないかもしれないが)飛ぶ鳥を落とす勢いのトレンディなテレビ局。ドラマにバラエティと、ナウなヤングの情報源。電話回線にダイヤルアップ接続するようなネット状況の時代において、音楽の情報を収集することにおいても欠かせないテレビ局であった。

そんなタイミングで大学受験シーズンに突入した。

実家の財政事情もそれとなく分かっていた私は、極力長谷川家のお財布に迷惑のかからない公立の大学に希望の学部がないかを探していた。

そんな時、深夜にテレビで見た「高城剛X」なる番組に衝撃を受ける。松下電器(現Panasonic)が発売したゲームハード3DO(スリーディーオー)の宣伝番組として、後年まさか「別に」エリカ様と結婚するなんて思いもよらないハイパーメディアクリエイターの高城剛氏がMCを務めていた番組だった。

3DOの発売が表しているように、ゲームというメディアの表現が3Dへと移り変わりつつあり、ネットワーク・インターネット・マルチメディアという言葉がじわじわと浸透しつつあった時代。様々なクリエイターの企画や対談が放送されていたその番組の最終回。

高城剛氏が「マルチメディアとは?」と問われて、こう答えていた。

「明るい未来です」と。

この言葉を聞いた時、自分が学びたい学問の方向性がバチっと定まった気がした。メディアに関する勉強をしたい、と。明るい未来を創造する様々な新しいメディアや、そもそもメディア自体について、もっと詳しく知りたい、専門的に学びたいと思ったのだ。

斯くして進路の方向性は定まり、色々と大学について調べ始め、物理的な距離も山形県からさほど離れていないという安心感のあるお隣新潟県の新潟大学人文学部に「メディア論」を学べる学科が新設されることを知る。

しかし、男子校生活に慣れ、男子校生活という沼に溺れ、遊びに遊んでいたド文系の私である。成績は下の下、もちろんそんな国立大学合格にとてもとても届くような成績ではない。

三者面談等でも「そこを志望しますか…」的な表現で担任の顔を曇らせるばかりであったが、持ち前の変な頑固さを発揮し「メディアについて学びたいんだ!」と猛烈アピール。「まぁセンター試験でよほど大コケしない限り、受験はできるでしょう(浪人する可能性が高いけど)」と担任を納得させたのだった。

その後、実家の財政事情を考慮して負担のないように…との想いで現役合格を目指してキバってはみたものの、成績が上がらないまま訪れた2次試験。

模試の結果などからは、余程のメイクミラクルでもない限り現役合格は難しいという状況。「親は浪人を許してくれるだろうか…」そんな敗色濃厚の気分で、私は新潟市内の民宿に宿泊していた。志望校を同じくする高校の同級生たちを学校側が引率する受験ツアー的な宿泊である。

夕飯時にテレビを眺めると、山形県では放送されていないフジテレビの番組が流れていた。

見たくて見たくてしょうがなかった「ウゴウゴルーガ」のゴールデン特番である。

ポンキッキ的な子供番組を装いながら、その実はオサレなクリエイター達の実験的なクリエイティビティが満載だとウワサだった「ウゴウゴルーガ」。音楽やサブカル的な文脈からも「これは観ないといけない番組だろうに、何故に山形では放送されていないのだ」と歯ぎしりしていた「ウゴウゴルーガ」。

憧れていたその番組の中で、ピチカート・ファイヴが「東京は夜の七時」を歌っていた。

東京まで出ていく勇気はなかったけれど。

新潟の夜七時に流れた「東京は夜の七時」。

早く会いたい「あなた」もいなかったけれど。試験前日に負け確の浪人気分だったけれど。

好きな曲が、知らない土地の知らないテレビ局から流れたあの日あの夜。渋谷系の音楽に傾倒していた私のココロは、確かにキラキラ輝く東京にいた。

そしてもちろん、大学受験は失敗に終わり、浪人生活へと突入した。

☆渋谷系「ピチカート・ファイヴ」とか

渋谷系。1990年代に東京・渋谷を発信地とし、注目を集めたJポップのジャンル。

それまでの流行りであった“イカ天バンド”などの流れとは一線を画し、1980年代のニューウェーブやギターポップ、ネオアコ、ハウス、ヒップホップ、1960年代・1970年代のソウルミュージックやラウンジ・ミュージックといったジャンルを中心に、幅広いジャンルの音楽を素地として1980年代末頃に登場した都市型志向の音楽であるとされる。いとうせいこうは「渋谷レコ屋系」と分析し、「渋谷のレコード店に通い世界中の音楽を聴いたアーティストたちによって生み出された音楽」と述べており、渋谷系の共通点については、「オシャレ」、「力まない歌声」、「メインストリームとの絶妙な距離感」を挙げた。

具体的なアーティストとしては、ピチカート・ファイヴ(小西康陽・野宮真貴)、ORIGINAL LOVE(田島貴男)、フリッパーズ・ギター(小山田圭吾・小沢健二)、bridge(カジヒデキ)などが挙げられる。ミュージシャン自身は「渋谷系」への区分を喜ばないことが多かったが、多くの音楽的要素を取り込んだ彼らの音楽を表現する言葉としてよく用いられた。また彼らのCDのジャケットデザインやファッションは、1960・70年代のデザインを引用し解釈しなおした斬新なものであり、これらの音楽のファン層に強い影響を及ぼした。

ウィキペディア フリー百科事典より抜粋

渋谷系と呼ばれる音楽に一番最初に触れたのはいつだっただろう。

それは、イケイケドンドンなバブル時代の雰囲気を凝縮したようなTV番組「ねるとん紅鯨団」のCMチャンス中に度々放映された、これまたバブリーな雰囲気満載のアルペンのCMで流れていた、フリッパーズ・ギターの「BLUE SHININ' QUICK STAR 星の彼方へ」だっただろうか。

はたまた、TBSで放送されたおトレンディさを匂わせる、ブギ三部作(「ママハハ・ブギ」「ADブギ」)のドラマ「予備校ブギ」の主題歌だったフリッパーズギターの「恋とマシンガン」だっただろうか。

いずれにせよ、男子高校で悶々と過ごしていた私である。渋谷系音楽を聴いていると脳内に湧き上がってくる、大学での一人暮らしや、いっちょ前な大人として自立した時に目の前に広がる「かもしれない」オサレでラヴリーで女子にモテモテな感じの世界観にワクワクしながら飛びついていた。

まぁ、案の定。Unknown Joe。誰だよジョーって、とナチュラルな感じに、そんなオサレに女子とキャッキャウフフできるようなβ世界線には決して辿り着くことが叶わなかったわけではあるが。

リーディングシュタイナーの能力も持っておらず、シュタインズゲートの選択にも微笑まれなかった私が、辿り着くことの叶わなかった渋谷系で描かれるようなβ世界線。その世界観を端的に表してくれているのは、ピチカート・ファイヴ「ハッピー・サッド」のこの一文だと思う。

ゆうべ手に入れて ふたりで聴いた レコードの裏おもて 
退屈なラブソングと憂鬱なジャズと
真夜中のターンテーブル ただ廻り続ける 
踊りたくなるような ソウル・ミュージック
永遠に続く いつだって happy sad

ピチカート・ファイヴ「ハッピー・サッド」の歌詞より

彼女とレコード店に行きアナログレコードを買う。「あんまりいいレコードじゃなかったね」なんて話をしながら夜通しイチャコラ。オサレなソウル・ミュージックがターンテーブルでループし続けているので、ちょっと踊る。

そこにあるのは、リビドーに振り回されている男子が憧れるような「The性欲」的エロティシズム至上主義の世界ではない。

少しドライに、少し物悲しさも漂わせながら、エロスも異性とのイチャコラも文学性もオサレ感もフラットに共存している世界。渋谷系という空気感が濃縮されている歌詞であると思う。今こうして振り返ってみても、小西康陽さんの素晴らしい才能が溢れまくった歌詞であると思う。

他にも個人的にピチカート・ファイヴと言えば

NHK「みんなのうた」でも放送され、今でも「冬のある日」にふと脳内で流れてしまう「メッセージソング」や

「死ぬ前にたった一度だけでいい 思いっきり笑ってみたい」と、ヌーヴェル・ヴァーグ的おフレンチ映画を思わせる小西康陽さん節全開の「陽の当たる大通り」などが私の人生を彩ってくれた。

嗚呼、大学受験とピチカート・ファイヴ。ピコピコ中年がダラダラ語る「音楽夜話」。今回はそんな夜話で御座いました。

それでは皆さん、また「音楽夜話」でお会いできたら嬉しいですね。ごきげんよう!(アステアみたいにステップ踏んで バイバイ バイバイ「陽の当たる大通り」より)

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