ずっとそばにいた僕の神様
ハッ、ハッ、と息を短く切らす音。それと同時に、ザッ、と地面の土や砂利が靴底と擦れる音。その音たちは、一人の少年によってどんどん上方へと連れ去られてゆく。周囲の美しい緑を広げる木々も、真上に広がる飲み込まれそうな青い空も、少年はお構いなしに上へ上へと走ってゆく。
彼がひたすらに目指している場所は、ただ一つ。
「着いた……っ!」
膝に手をつき、彼は叫ぶようにそう独り言ちた。そんな少年が立っているこの場所は、とある低い山のてっぺんだ。周囲にはもっと高い山もあるのだが、いくら登山好きでもまだ幼い彼には、この山が今の精一杯である。
十数秒かけて呼吸を落ち着かせ、地面を見つめていた視線をゆっくり上げていく。ここに到着して初めて、彼は山の景色を認識するのだった。季節によって様々な表情を見せるここの景色が、彼は大好きだった。今は夏。辺りにはとても綺麗な緑色が広がっている。
それを確認してから、彼はすぅ、と息を吸った。
「こんにちはー!」
そして、思い切りそう叫んだ。すると。
《こんにちはー!》
間もなくして、向こうの山辺りから同じ言葉が返ってきた。それを聞いた少年は、誰に向けるでもなくにこりと笑った。
「うん、今日も山の神様はいるみたいだ」
*
始まりは、随分前のこと。今よりもっと幼き日の少年は、家族と一緒に山登りに来ていた。
『お母さーん、足痛いー!』
『あら、もう弱音吐いてるの? 頑張んなさいな、ほら行くよ!』
歩きたくないと駄々をこねても、彼の母はそれをあっさりと笑い飛ばすだけだった。これ以上言っても相手にされないと分かった彼はふてくされつつも諦め、再び母の後ろについていく。
通常よりも小さく生まれた彼は、赤子の頃から体が弱かった。少しでも体が丈夫になれば、と思い、彼女は近くの低めの山に一緒に登らせてみようと思ったのだった。無理しすぎないようにとは思っていたので彼の様子を細かく気にしていたが、思いの外、山頂はもうすぐ。どうやら自力で辿り着けそうだった。
『――ほら、着いたよ! てっぺん!』
彼女がそう彼に伝えると、先程までムッとしていた様子はどこへやら。彼は山頂からの景色を、「わぁ!」と感嘆の声をあげながら目を輝かせて見ていた。この時の風景は彼曰く、「きらきらして見えていた」とのこと。
そんな彼を見て微笑んだ後、母は目の前の山に向かって叫んだ。
『こんにちはー!』
急に叫んだ母親を見て、彼は目を丸くする。
《こんにちはー!》
そして、どこからか返ってきた謎の声に、さらに頭に「?」が浮かぶ。
『お、お母さん? 何してるの?』
『ふふ、今の声聞こえた?』
自分の予想通りに驚く我が子を見た彼女は、面白がるように笑いながら答えた。
『今みたいに山に向かって大きな声を出すとね、山の神様が言葉を返してくれるんだよ』
『山の神様?』
『そ! ほら、折角だから挨拶してみたら?』
そう母にぽん、と背中を叩かれる少年。普段は中々大きな声を出すことなどなかったが、自分の声も返してくれるなら、と思うと、一度やってみたくなった。
『――こ、こんにちはー!』
《こんにちはー!》
『……!』
ちゃんと声が返ってきたことが分かると、彼は思わず母の顔を見た。彼女は頷きつつ、にっこりと笑った。
この時の衝撃が思ったよりも強かったのか、はたまた楽しかったのか。彼は月に一度ほどのペースでこの山に登りに行くようになった。最初こそ心配で母もついていっていたが、時が経つにつれ段々と、一人でも平気なくらいになっていった。また、最初こそ歩いていっても息切れしていたほどだったのに、今ではすっかり途中で走れるくらいには強くなっていった。
何度も通い詰めていくうちに、彼は色んな言葉を投げかけた。そこで分かったのは、山の神様は基本的に、自分と同じ言葉を鸚鵡返しのように言ってくるということだった。何を言っても、大体は。
しかし一部だけ、普通に「答え」として返ってくる言葉もあった。
「ヤッホー!」と言うと、「ヤフー!」と、ちょっと変わって返ってくる。テンション高いな。
「バカヤロー!」と言うと、「何だとテメー!」と。キレられてしまった。
「すみませーん!」と言うと、「こちらこそー!」と。一つ前とは打って変わって礼儀正しい。
「ヤマー!」と言うと、「カワー!」と。なるほど、セットなのだろうか。
「今何時―!」と言うと、「そうね大体ねー!」と。わざわざ教えてくれるなんて親切だ。
しかし、「いち足すいちはー?」と、学校に通う子どもたちならまずはじめに習う数式を投げかけた時は、少年が何度聞いても答えは返ってこなかった。最初は「2」を知らないのかと純粋に思った時もあったが、ある日に「二番目」という言葉を叫んだ時は普通に返ってきたことから、どうやら計算は極度に苦手なのだろうということを察さざるを得なかった。流石にこの時ばかりは、意地悪してごめん、と少年は思った。
そんなこんなとあったものの、少年はこのほぼ鸚鵡返しの遊びを心から楽しんでいた。
*
「なぁ。ちょっと訊きたいことあるんだけど、いい?」
普段は近所の子どもと同等、学校に通っている少年。今日も一日の授業が終わり、荷物をまとめて帰宅しようとしているところだった。
「ん? 何?」
そこで話しかけてきたのはたまにだけ話すことのある、同じ組の少年だった。悪い印象もなければ、特にこれといった良い印象を持つほど仲良くもない間柄。つまり、接点がさほどない人。そんな人が何の用だろう?と思いつつ、彼は少年に返答した。
「君さ、よく近くの山に登ってるよね?」
「え……まぁ、月に一回程度だけど、登ってはいるよ。でも、何でそれを知ってるの?」
「あぁ、単純だよ。僕の家、かなり山の麓に近い方にあるからね。度々見かけてた」
「そういうことか、なるほどね。……で、僕が山に登ってるからどうかした?」
元はと言えば、それで目の前の少年は話しかけてきたはずだ。逸らした話を彼が元の軌道に戻すと、少年は「あぁ、そうそう」と思い出したように話を続けた。
「君って噂には敏感な方? それとも鈍い方?」
「噂? 特に気にしないからあんまり聞かないんだけど……」
「じゃあやっぱり、まだ知らないかな。僕も、山の近くの人からついこの間聞いたんだけど」
少年は若干眉を八の字にしながら続けた。
「山登ったらさ、大体山彦やるじゃん。山の向こうに」
「うん、基本毎回やってるよ」
「あれさ、実は『返すものがいるから』じゃないって噂が最近出てるんだよ」
「……え?」
これまでの神様とのやりとりを思い出しつつ、彼は返す言葉を失った。そして、その果てに口から出てきたのは、ただ一言だけだった。
「……どういうこと?」
「これまで神様だとか妖怪だとかが返してると信じられてきたけど、どうやら山彦は『現象』だって証明した人がいるらしいんだ」
「現象? 現象ってことは、つまり……?」
「山彦は、自分の声の音波が反響して返ってくることだ、って。同じ言葉が返ってくるのはそれが理由なんだって。だから、神様も妖怪もいないんだって。噂でそんなことが広まってるみたい」
――そんなの、嘘だ。
到頭少年の言葉に耐え切れなくなってしまった彼。その胸中の言葉の勢いのままに、荷物を持って教室から飛び出した。
彼が向かったのは勿論、あの山だった。ただでさえ授業があったことで体力は満タンではなかったのに、教室から走ってきたせいで早々に尽きてしまった。しかし、どうしても神様と話したかった彼は、それでも山頂を目指して歩き続けた。今日は午後の早いうちに授業が終わったのが幸いだったが、暗くなる前に山を下りなくてはならない。
――それまでに、話さなきゃ。
――だって、神様は絶対に山の向こうにいるんだから。
大体は彼と同じ言葉を返す神様だが、時々、違う言葉を返してくれることを彼はずっと覚えていた。だから、そんな噂は嘘だという証拠が欲しかったのだ。まだ二桁にもならない歳の少年は、ただそれだけを求めて必死に登っていた。
今でこそ他の子どもたちと同じように動けるほどには強くなったものの、山登りを始めるまでは中々「友達と遊ぶ」ということができなかった彼。だから、仲の良い友達というのはそう多くなかった。
そんな中でも、山の神様だけは、鸚鵡返しでも彼の話し相手になってくれていた。彼の中では、神様が一番の友達みたいなものだったのだ。
必死の思いで息を切らしながらなんとか登り切り、彼は膝から崩れて地面に手をついた。空では大分日が傾きかけている。急がなければ。
息も整わないまま、彼はありったけの空気を吸い込んで叫んだ。
「ヤッホーー!!」
普段は挨拶から入る彼も、神様を信じてこの言葉を選んだ。すると、間もなくして返事が来た。
《ヤフーー!!》
その返事を聞いて、少年は思わず視界が滲みかけるのを自覚した。ホッとしていた。ちゃんと「返事」が来たということは、やはり神様はそこにいるのだ。噂なんて、ただの噂にすぎなかった。そう思えた。
「……また今度、ちゃんと来るね。神様」
ぐいっと目を擦って彼はそう呟く。そして、心配しているであろう母のことを思い出し、帰路を急いだ。
しかし、噂が広まるというのは、人が思うよりもずっと早い。少年が山へ急いだ翌日、そのまた翌日くらいにはもう、「山彦は音波の反響だ」と信じる人がかなり多くなっていたのである。
自分は神様の言葉を聞いているからそれは嘘だ、と思っていた少年も、時折多数の意見の前には不安になることもあった。ただ、それでもそんな意見は振り切って、神様を信じていた。
だが、そんな彼の前でも到頭事件が起きたのだった。
*
少年は、毎月のようにまた山へ登っていた。学校後のこの前とは違って、今度はきちんとペースを保ちながら歩いていた。またこうして山に登るまでに学校でも里でも相変わらず噂は飛び交っていたが、少年はなんとか神様を信じたまま足を前へ進め続けている。
――今日はちゃんと、ゆっくりお話しするんだ。
あの日から、そう心に決めていた。
いつもの楽しみと一抹の不安とを抱え、一歩一歩上へと向かう。
「――よし、やっと着いた」
山頂に着いた時、思わずその一言がこぼれた。普段は最後の方は走って向かうのだが、今回はしっかり最後まで歩いていったからだろう。いつもよりも大分時間がかかった気がしていた。一度息を大きく吸い、吐き出す。それでも若干の緊張感は拭えなかったが、気休めにはなったかもしれない。
少年はよし、と意気込んで叫んだ。
「こんにちはー!」
《こんにちはー》
いつも通りに聞こえたと思ったが、何度も神様の声を聞いているこの少年。どこか、なんとなく、違和感を抱いた。
「……あれ?」
――なんだか、声が遠いような。
そう思い、少年はもう一度叫んでみる。
「こんにちはー!」
《こんにちはー》
――やっぱり、変だ。
普段なら、もっとはっきり元気な声が聞こえてくるのだ。それが今は、どこか遠い、輪郭がぼやけたような声が返ってくるだけだ。まるで、噂通りに遠くから自分の声が跳ね返って来たかのような――。
そこまで思ってハッとした少年は、慌てて叫んでみた。
「ヤッホー!」
この前と同じ答えが返ってくることを、信じて。
声が返ってくるまでの一瞬が、とても長い時間のように感じた。そして。
《ヤッホー》
返ってきたのは、さっきの挨拶同様、どこか遠く聞こえる自分と同じ言葉だった。一縷の望みが儚く崩れたような音がした。少年は力なくその場にへたり込んだ。
そんな、どうして。だって、あの時は。
「……あの時は、神様、ちゃんといたじゃん……」
「ヤッホー!」と返したら、「ヤフー!」と返してくれたはずなのに。確かにそこで、話を聞いてくれていたはずなのに。ずっと、信じていたのに。まさか全て、夢か幻か何かだったというのか?
そんな思いがぐるぐると駆け巡り、少年はこれ以上言葉を発することができなくなってしまった。周りの美しい色が、風に吹かれた砂のようにこぼれ落ちてゆくのが見えた気がした。心地よく感じていたはずの風の音さえ、彼には聞こえない。
ただひたすら、空白の静寂がそこにあるだけだった。
――ガサッ
「ッ!?」
拍子抜けしたかのように力尽きてしまったところで、不意に背後から物音が響いた。
山頂は道中よりも開けているとはいえ、何らかの動物がいないとも限らない。特に体格の大きな動物なら尚のこと危険だ。ひゅっ、と喉が締まるような感覚を抱きつつ、少年はそっと背後の様子を窺った。
『……君だね、ずっと私に向けて声を発してくれていたのは』
しかし、現れたのは動物ではなく、人間の言葉を話せる誰かだった。
「……えっ?」
微かに地面が擦れる音を発しながら、その声の持ち主は少年の元に近付いてくる。
『ずっと、また君が来てくれるのを待ってたよ』
そう言って現れたのは、桃色と茶色の間のような色をした服に、緑色の髪、そして、犬にも似た茶色の耳のようなものを持つ少女だった。声が聞こえる程度に少し離れた場所で彼女は立ち止まった。
「……あな、たが、山の神様?」
『神様? ……あぁ、そうね。姿が見えなきゃそうも思ってしまうかもね』
少年がなんとか発した声に対し、彼女は困ったように笑って答える。
『私は幽谷響子。山彦の妖怪。だから、君が言うような、神様みたいな凄い存在ではないけれど……』
「妖怪」という言葉を聞き、思わず彼の顔色がサッと変わった。それを見た彼女は慌てて手を目の前でぶんぶんと振る。
『ま、待って。私、決して君を襲うために現れたんじゃないの……! だから君から離れて話してるし、ここからは一歩も近付かないから!
……少しだけ君と話がしたくて、ここにやってきたの。それでも、だめかな……』
段々と小さくなっていく声を聞いて、少年は胸が痛くなった。普段はずっと自分の言葉を大きな声で返してくれていた存在だというのに、今では自分の振る舞いで傷付けてしまったかもしれないのだから。そう思った彼は、彼は大きく何度も頷いた。
「ごめんなさい、勝手に怖がって。その言葉信じるから、僕も話したいです」
『……信じてくれるんだね、ありがとう』
響子がそうにこりと笑った直後、体が大きくふらついた。体勢を崩して転んだ彼女を助けようと思って少年は近付こうとしたが、彼女は「近付いちゃだめ」と制した。
『私、もうすぐ、消えてしまうから……何が起こるか分からないから、近付いちゃだめだよ。ごめんね』
「き、消えちゃう……? 何で、どうして!?」
彼女は再び立とうとしたが既に限界が来ているようで、座り込んで少年を見上げるようにして話す。
『里の方で、噂があったでしょ。山彦は音波の反響だって』
「は、はい……」
『妖怪って、人間に恐れられることで存在が立てられるの。でもその分、恐れられなくなってしまえばその妖怪は消えてしまう。……噂によって、山彦を妖怪の仕業だと思う人は激減してしまったの』
「そんな……!」
思わず叫ぶように返した少年だったが、噂を信じた人が多かったことは身をもって実感していた。その時に「神様は本当にいるよ」と反論できたらよかっただろうか? でもそんなことを思ってももう遅い、と、彼は拳をぎゅっと握り締めて後悔した。
『……もう、ほとんどいないんだ。だから私はもう、ここには存在できなくて』
「で、でも! あなたは僕の声、返してくれていましたよね!? 皆きっと、どこかでは信じていたはずじゃ……!」
『ふふ、ありがとう。最後までそう思ってくれていたのは、君だけだね』
少年の声に首を小さく横に振りつつ、彼女は微笑んだ。
『あそこまで色んなことを話しかけてくれたのは君だけだったよ。だから、たまには違う言葉で返したくなったの。……計算は、私には分からなかったけどね』
「そう、だったんですか……」
『……本当は姿を現すべきじゃないけど、私、そんな君にお礼を伝えたくて来たの。せめて最後に、顔を見て伝えられたらって思って』
そう言った彼女の姿が、段々と薄くなっていることに少年は気付いた。でも、近付けない上に、彼自身にはどうすることもできないことも分かっていた。自分はただ、ここで見ていることしかできない。それが悔しかった。
「僕だって……僕だって! 嬉しかったですよ! 叫んだらいつも返してくれて、時には話も静かに聞いてくれて。それがどんなに支えられてたか……なのに、いきなりお別れだなんて……」
『……ごめんね。本当はもっと、君の言葉返したかったなぁ』
どんどん薄らいでゆく彼女の頬に、涙がこぼれていくのが見えた。少年にはもう何も言える言葉が残っておらず、自分もまた泣くことしかできなかった。しゃくり上げて泣く彼の様子を、響子は温かい目で見ていた。
『最後に、許してね』
響子はそう言うと、自らの約束を破って、最後の力を使って少年のそばに近付く。そして、彼に凭れかかるようにしながらも、そっと抱きしめて言った。
『――最後まで、私のことを信じてくれてありがとう』
そして、やっと聞こえた風の音と共に、彼女は静かに消えていった。
「――っ、あ……」
彼は風の方向を目で追った。そして、小さくだが確かに言った。
「ありがとう、『神様』……!」
それ以来、少年は山へ登ることはなくなってしまった。だがその代わり、一つの習慣が増えたという。
「行ってらっしゃい、今日も頑張ってね」
「うん、行ってきまーす」
母親に見送られ、少年は自宅から学校へと向かい出した。……と思いきや、途中で別の方向へ逸れ、小高くなっているとある場所へ向かう。そこからは、あの山が一番よく見えるのだ。
彼は少し小走りでそこへ向かい、着いたと思ったら早々に大きく息を吸った。
「おはよーございまーす!」
そして、山に向かって挨拶を一つ。もういないかもしれないけど、きっとこの声が届きますようにと、大きな声で。
いつかはきっと届くかもしれないと、信じて。
少年は満足気ににっこりと笑い、再び学校へ向かって行った。
fin.
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