例の応募作の原文(第5部のつもり⑤)

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「あの、柏木さん…… 俺もちょっと酔っぱらってしまっていて。これは酔っぱらいの戯言ざれごとというか、そんな感じで聞いてもらえればいいんですけど。
 ひらく会が創設される前、『戦争画をどう捉えるか』についてしっかり討論をした。そして『ひらく会は、これから絵を描いていく者のための団体である。戦争画は過去のものとして捉える』と結論づけた、と聞いていますけど」
「そうだよ。あの分野に足を踏み入れたかいなかも『不問にす』。画家が過去にああいうものを描いたかどうか、そんな色眼鏡をとおして見ていたらそれは『作品を鑑賞する』ということにはならないし、団体内の人間関係にも影響が出てしまうじゃないか。だから、タブーということにしておくのが一番いい。
 俺だって、身を削って描いたものが『元従軍画家の絵だもんなあ』の一言で片づけられたら嫌だもの」
 そう、柏木さんは志願して従軍画家となった経歴の持ち主だ。志願して従軍画家になった、といえば芸校の玉井先生を思い出すところだ。しかし玉井先生は、芸校講師としての将来に希望を見いだせなくなって――いわば希望のない場から去るために従軍画家となった。
 一方で柏木さんは、とんでもなく前向きな気持ちで臨んでいた。
きん鉱床こうしょうが見つかったらしい」との噂を聞きつけた欲深い連中が、さらに大きな金脈を掘り当てようと採掘地に殺到する。そんな感じのことが、絵描きの世界と戦地では起きていた。文弱呼ばわりされ肩身の狭い思いをしていた画家(の一部)にとって、戦争は「芸術家だってお国の役に立つんだ」と証明する好機ともいえたし、絵筆一本で食っていきたい者にとっては時局画展入選など大きな目標を掲げ邁進するきっかけにもなる。
 日中戦争開戦当初、日頃の白眼視はくがんしを払拭しようと目論もくろむ画家がわんさ・・・と戦地に押しかけて軍から迷惑がられていたが、柏木さんもそのひとりとして海を渡っていたのだ。彼は小学校教師として教壇に立ったばかりだったが、従軍希望を理由に助教師扱いとしてもらって戦地を目指すことにした。
 彼には西洋画の心得もある。戦地ではそちらの腕を活かし、軍事郵便の絵はがきでも従軍記事の挿絵でも「描けるものはなんでも描いてやる」とばかり前のめりに取り組んでいた。
「柏木さんの経歴のことも、ちょっと聞かせていただいたことはありますけど。
 なんていうかな、タブーになっているせいで、皆さんそれぞれが戦争画をどう捉えているのか聞かせていただく機会を逸しているんだよなあ、って」
「そんなことを聞いてどうするんだよ」
「だから、あの…… 単なる酒の肴代わりの話、ってことで。いや、違うな。
 俺自身『戦争画とはなんだったのか』の答えを、ものすごくほしがっているんですよね。その辺を整理しないと前に進めないような気がしている。実は、ずっと前からもやもやしてどうしようもなかったんです」
「そうか、なるほどな。
 君は天下の芸校出身だ、首席で卒業した同期生と並ぶ逸材として高く評価されていた。しかし『彩管報国』が合言葉になった美術界には一切迎合しなかった。君は高潔だよ。
 俺は『猫も杓子しゃくしも従軍画家』という流れに乗っかった三流画家だもんな」
「いや、逸材だ高潔だって、そんな言葉は俺にはもったいない。
 あの…… 質問に答えていただけると嬉しいんですけど」
「ああ、ちょっとひねたようなことを言って困らせてしまったな。申し訳ない。
 そうだな、戦争画とはなんだったのか…… 一言でいえば『仇花あだばな』だったんじゃないのか?」
 
 名の知られた画家が従軍する際は軍からの委嘱を受け、軍属扱いで帯同し下にも置かぬ扱いを受けたという。戦地に向かう時は司令部に頼めばすぐ車がやってくるし、長距離なら軍用機をチャーターしてくれる。兵士に「モデルをやってくれ」と声をかければ無茶な姿勢のまま微動だにせず、「もういい」と言うまで汗だくで耐え続ける。画家が「よくやってくれるなあ」と労うと、兵士は「上官どのの命令でありますから」と答えた、とかなんとか。
 それに対し、市井の画家が志願して従軍するとなるとなかなか大変だったらしい。柏木さんも、自治体派遣の慰問使だったはずが兵士とともに行軍し、泥まみれになって隊列の最後尾から追っかけていったり仲間とはぐれたり。一兵卒よりちょっといいか下手すると兵士並みか、そんな待遇を受けつつスケッチを繰り返していたそうだ。
 苦労どころでは済まないような体験がありつつも、任期を終えて帰国し個展などを開けばやはり「また行かなければ。まだ描くべきもの、伝えるべきものがある」と感じたし、いつかは軍属扱いで行ってみたいものだ、という野心も出てきた。そのためには「名の知れた画家」の仲間入りを果たさなければ、せめて大規模な公募展で入選するぐらいでなければいけない。
 そんなことを夢想しつつ従軍しては帰国し成果を披露し、と繰り返しているうちに太平洋戦争が始まり、「従軍よりは未来の兵を育てることが大事だ」と校長に説かれて正式な教師として働くことになった。教室では「お国のために」云々と子どもたちに軍国主義を叩きこみながらも「教師なのだから赤紙が来るのはうんと先、あるいは来ない可能性だってある」と高をくくり、暇を見つけては過去の作品を整理したり時局画展出品を見据えた作品に向き合ったりしていた。
 そして敗色濃厚となった頃、とうとう召集令状を受け取ることとなった。「描かれる側」に回ることを実感した時、それまで感じたことのなかった感情がこみ上げてきた。
 日中戦争期は、死ぬかもしれない、あるいは死んでいるであろう人を、さんざん描いてきた。こんどは俺がそっち側にいくのか。
 そう思ったら、時局画展も描きためたスケッチもどうでもよくなってしまった。そんな瞬間があった。
「それで出征はしたんだ、でも国内で終戦を迎えた。すぐに帰ってきて仕事に復帰したけど、こんどは今までと正反対のことを教えていかなきゃいけない。墨塗り教科書だなんだって、そういうのに忙殺されているうちに『また描きたい』と思えるようになったんだ、実は赤紙が来てからは描く気が失せていたんだよな。
 そして新田さんが団体を作ろうとしていると聞いて、仲間に入れてもらったというわけだ」
「その辺のお話も、前に聞かせていただきました。
 それでね。さっき『仇花』とおっしゃいましたけど、戦争画のどういう点が『仇花』だとお考えなんでしょうか」
「そうだなあ…… 当時の情勢、軍の思惑。そんな中で生まれた渦の中になんの疑問も抱かずに飛び込んでいった、俺みたいな浅はかな画家たちの意欲。そこで起きた『馬鹿げた化学反応』ということもできるかもしれないな。
 当時の俺みたいな『描きたくてしょうがない、認められたくてしょうがない』って奴が掃いて捨てるほどいたんだから。きっと生まれるべくして生まれたものなんだろうな、こんな言い方をすると自己弁護みたいになっちゃうけど」
「いや、大丈夫ですよ。なんだか、だいぶすっきりした感があります」
 私の隣には、小池君が座っていた。団体最年少、22歳の彼も芸校卒業生ではなく、絵に関するつながりを持てないまま独学で描き続けてきた苦労人だ。ひらく会に加入してからは工員として働きながら制作活動を行なっているが、かなり内気な性格のようでどんな時でも口を出してくることがほとんどないものだから(よほど強いのかなんなのか、酒が入ってもやはり押し黙ったままだ)、こちらも彼とどう接していいのか分からない。
 そんな小池君が、話しこむ私と柏木さんを凝視していた、いわば耳と視線だけで会話に参加していた。目の光が強く感じられるのは、浅黒い顔のせいでもあるのだろうか。
「なんだ、小池君。ずっと聞いてたのか?」柏木さんが笑顔で話しかけると、小池君は自分の指先かどこかに視線を落としくぐもった・・・・・声で「すみません」と言うと、「なんだか、俺もちょっとすっきりしました」と照れくさそうに打ち明けた。
「そうか。君の意見を聞かせておくれよ」
「意見というか…… 今のお話を聞かせていただいて、戦争画を過去のものとする理由が分かったような気がします。
 新田さんは『議論と批判は違う』っていつもおっしゃっていて、それでも絵のことで言い合いになってしまうことがありますけど。なんていえばいいのかな……
 あの、すみません。ものすごくおかしなことを言うかもしれませんけど」
「いいよ、これまで主張してこなかったぶんを取り返すつもりで言ってみればいい」
 私はそう促したが、うっかり「意見を聞かせて」なんて言ったばっかりに新たな軋轢あつれきが生まれるのでは、とひやひやするような感もあった。でも小池君の口から出てきたのは、おかしなことでもなんでもなかった。
「戦争画の話って、もめごとを生む可能性がものすごく高いですよね。話していれば絶対に喧嘩になるだろう、って。でも同じ喧嘩をするのなら『これから描く絵』のことで喧嘩すればいい、創設時に皆さんがそうお考えになったんだろうなあ、って腑に落ちました」
「ま、そうだな。戦争画の話をしているうちに、従軍画家の経験がある誰かさん・・・・はじめ、そういうのを手がけた人間を責める方向にいく可能性は大いにある。しかしそれは不毛なことだ、だから話題にするのは避けよう。そんな感じの取り決めがあった、ってことだ」
 柏木さん自らこんな風に言ったが、機嫌を損ねている様子はない。むしろその辺の事情を理解してくれてほっとした、といった表情だ。そして小池君に訊ねた。「君は、そういう絵のことをどう思っていたんだ?」
 小池君は細い指をごにゃごにゃ動かしながら「言っていいんですか?」と呟き、柏木さんが「いいよ」と答えると「憎んでいました」と吐き出すように言った。
「俺、時局画展には1回しか行ったことがなかったんですけど。見に行ったわけじゃなかったんです」
 裕福とはいえない家に生まれ、描くこと以外なんの取り柄も楽しみもない幼少期を過ごした小池君だったが、国民学校の卒業を控えた頃になると親からも先生からも「絵を描くのなら、お国のためになるものを描けばいい。そうすれば暮らし向きもよくなる」「評価に値する絵は、今は時局を反映したものしかない。描いて評価されれば画学校にだって行けるかもしれない、ひとまず描いてみなさい」と口うるさく言われるようになった。
 しかし彼は、「そんな絵を描いたら手が腐る」と思っていた。国民学校を出て、看板屋で働きながら画学校進学の資金をこつこつ貯めていこうと考えていたが、そこでも「お国のためになるもの」を描かされる。すっかり嫌気がさして、いっそ絵とは関係ない仕事に就こう、と看板屋を辞めて町工場で働くことにしたが、不向きだったようだ。
 職場では古参の職人に怒鳴られっぱなしで、ちまたを歩けば軍国かぶれの子どもたちが走り回っているし、なんとか報国と大書したポスターがそこら中に貼ってある。人目がなければこんなポスターなんて一枚残らず破いてやるところだ、といつもむしゃくしゃしていた。
 自分の辛抱が足りないのか、世の中のほうがおかしいのか。そんなことを考えているうちに久しぶりに絵を見たくなり、次の給料が入ったらひとりで美術館に行くことにした。
 しかし給料日前に「絵を見るといっても時局画しかないんじゃないか」と気づいた。そうしたら絵を見に行くことではなく嫌なことをするのが目的になってしまい、展示室で有名どころが描いた大作に刃物で大きな×印をつけるところを繰り返し夢想した。さすがに良心がとがめたものの、忌々しい絵を傷つけてやりたい願望は治まらない。
 給料日に、工場で二寸釘をくすねて「こいつを絵の端っこに突き刺してやろう」と決め、仕事帰りに美術館に行った。そして、ばかでかい作品の前で数分間立っていた。しかし人目があったし、実行などできずすぐ帰ってきた。
「想像していたことをやったとして、それがばれたら警備員がすっ飛んできて俺を捕まえるんだろうな。その時に俺は何か叫ぶんだろうけど、どんな言葉が出てくるんだろう。そう考えたら、なんだかもう……」
「よかった。よく思いとどまった」
 褒めたのかなんなのか、その程度の言葉しか出てこなかった。絵を見る者、また自らも絵の心得がある者が絶対にやってはいけないことをやらずに済んだのは「よかった」という他ないが、彼がもしやってしまっていたとして、捕まった時にどんな言葉を吐いたか。それもまた「戦争画とは」に対する答えのひとつといえるのではないか、そんな気もする。
「それっきり絵を見に行くこともなくなって、描くこと自体遠ざかっていて。
 やりたいこともできないし悪いこともできない、なんにしても小さい人間なんだなあ、みたいなことを感じたのかもしれません。志願兵になるわけでもない、勤労奉仕の話があればそれに従って、ただちまちまと働いてるだけで。
 徴兵検査を受ける前に終戦になりましたけど、俺なんか兵隊にとられた経験がないだけよかったんだ、って今は思ってます」
「君の話を聞けてよかったよ。おとなしくみえる君にも苦しみがあり、大いなる反骨心、というものがあった。人柄と画風がいまいちつながらない感もあったが、今ようやくつながったよ。こちらもすっきりした」
 柏木さんが言った。「これからの絵」を標榜ひょうぼうする「ひらく会」だが、それにそぐわない作風、いってしまえば旧態依然という言葉がしっくりきてしまうような作品も少なくない。そんな中にあって、彼が描くものは先進的というか、日本画の枠にとらわれない自由な描線や色遣いが大きな特徴だ。「これからの絵」に一番近いものを描いているのでは、という評価を得てもいる。
「なるほどなあ。ちょっと怒っている絵、にも見えてくるね」
 ちょっと離れたところに掲げられた小池君の作品を見ながらそう言ってみたら、彼は「実は、そうなんです」と頭をかいた。
「さすが大畑君。お目が高い」と柏木さんは笑った。「小池君の絵は、自分の本心と向きあうことで生まれた芸術なのかもしれないね。自分の本心というものは、結局自分にしか分からない。忙しくなったりすると、いつのまにかどうでもよくなってしまったりもするものだし。従軍画家ブームに踊らされていた頃の俺が、まさにそうだ。
 でも小池君は――大畑君もきっとそうだね、自分の本心に対して『どうでもいい』と思ったことが、おそらく一度もなかったのだろう。俺にはそういう姿勢がちょっと欠けていた、といえるかもしれない」
 柏木さんはいきなり、小池君に握手を求めた。小池君はちょっと面食らった顔をみせ、ズボンの腿の辺りで手のひらを拭うような仕草をしてから、柏木さんが差し出した右手を握った。
 
 宴席の中心に目を転じると、やはり新田さんが話を続けている。ちょっと彼らしくもないような口調で、なにやら言い募っていた。
「僕が画家ではなく銀行員になった理由、っていうのはね。尊敬するお祖父さまのような人間になりたかった、同じ道を歩んで同じように人を助ける人間になろう、と思ったからなんだ。そのために芸校を出てから経済学を学び直した。僕のお祖父さまは『村人の暮らしが豊かになるように』という願いから貯蓄銀行を興したんだ、僕もそんな風に貢献するんだ、と思ってわくわくしていた。
 でも、まさか戦争のための金集めが仕事になるなんて夢にも思わなかったよ。『なにが貯蓄報国だ』ってずっと思ってた、そんなポスターが店舗に次々と送られてくるけど破り捨ててやりたい、っていつもむしゃくしゃしてた。でも掲示しておかないと怒られちゃうからね。
 まったく、『報国』って本当はどういう意味だったんだろうね。どういうものをほんとうの『報国』っていうんだろうね」
 新田さんの話を聞いて小池君はほんの少し微笑み、柏木さんは「いやはや、仇花だらけだった、ってことだな」と苦笑いした。

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