遠野物語93
これは和野の菊池菊蔵という人、妻は笛吹峠のむこうにある橋野から来た人である。この妻が親里へ行っている間に、糸蔵という五、六歳の男の子が病気になったので、昼過ぎから笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行った。有名な六角牛の峯続きなので山路は樹が深く、ことに遠野分より栗橋分へ下ろうとするあたりは、路はウドになって両方は切り立った崖である。太陽はこの崖に隠れてあたりがやや薄暗くなるころ、後の方より「菊蔵」と呼ぶ人がいるので振り返って見ると、崖の上から下を覗くものがいた。顔は赤く眼光が輝いているのは前の話と同じである。「お前の子はもう死んでいるぞ」という。この言葉を聞いて恐ろしさよりも先にはっと思ったが、もうその姿は見えない。急いで夜の中に妻と一緒に帰れば、すでに子は死んでいた。四、五年前のことである。
○ウドとは両側が高く切込んだ路のことである。東海道の諸国にてウタウ坂・謡坂などというのはすべてこのような小さな切通しのことである。
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