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三元論の追究

 哲学の立場に、一元論と二元論と多元論というものがある。私は、そのどれとも違う「三元論」という立場が有効であることを発見したと思っている。なんと言っても、私の苗字は「三友」である。私は、大学、大学院で言語学を学び、文法(統語論)の研究をしている。この文法研究は、アメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーの影響を多分に受けたものである。チョムスキーは、自らの立場を多元論であると言っている。一元論か二元論かの対立は歴史が深いが、チョムスキーにとっては不毛に見えるのだろう。しかし、だからといって、多元論という立場をとるのは飛躍のし過ぎではないかと私は感じていた。
 私は、自分の苗字を分析的に観察して、日本語に複数形がないことから、「三友」の英訳はthree friends ではなく、three: the number for the notion of “friend”(「三」とは「友」という概念のための数である) と考えるようになっている。「一」は個物の最小単位であろう。「二」は一夫一婦制での夫婦の単位と言っていいであろう。そして、「三」は「友」の基本単位ということになる。
 この考えは、一人よがりかもしれないと思い、さらなる理論武装をする必要があると感じた。そこで考えたのが、デカルトの「方法的懐疑」にならった、「方法的唯名論」というものである。デカルトは、懐疑論者ではない。あくまでも、真理に到達するための手段として、一切のものを疑うという行為をしたのである。私が、私の名前に、実体である私自身との必然的な結びつきがあると考える唯名論的立場をとるのは、真理に至るための最も身近な方法を採用しているに過ぎないのであり、もっと良い方法があれば、唯名論は躊躇なく手放すものと考えている。
 ここで、三元論について、数学的に語ろう。0と1の二つの数だけからなる二進法は、中学校までの十進法を相対的に見るべく、高等学校で教えられていると思う。昨今、量子コンピューターが用いている原理が三進法といえるのではないかと思われる。ここでは、0、1に加え、「不確定(=uncertain、略してU)」という要素が用いられるとする。それでは、十進法と二進法との数え上げとの対応を見てみよう。

0    0      0
1    1      1
2    U      10
3    10     11
4    11     100
5    1U     101
6    100    110
7    101    111
8    10U    1000
9    110    1001
10   111    1010

 三進法ということにしているので、桁数が三を超えるところまで行くと、また0に戻ると考えてはどうだろうか。量子コンピューターは私の専門外なので、いま示した三進法が量子コンピューターの原理と一致しているのかは分からないし、そこまでの理解は必要ないであろう。
 私は、弁証法で世界を客観的に捉えたドイツの哲学者ヘーゲルよりも、自分にとっての真理の探究に身を投じたデンマークの思想家キルケゴールに共感を覚える。自分にとっての真理と思える三元論にたどり着いたことを自信として、これからも文法研究に勤しみたいと思っている。ただし、私はフリーランスで研究するウィークエンド・リングイスト(週末言語学者)である。そのことをしっかり自覚して、もう二度と精神科に入院することがないように気をつけながら、一歩一歩、前に進みたい。

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