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当麻の記憶#6 軍用地の昔話

緑郷地区は、開明地区と同じく戦後に開拓された土地です。戦時中は軍用地として使われており、緑郷地区を旧兵舎、開明地区を新兵舎と呼んでいたそ
うです。
「畑を耕していると地中に埋まった大砲の弾が鍬に当たった」と話すのは“長峰”と呼ばれる細長い丘と屏風山に挟まれた山間に住む太田瑞景さん(昭和
22年1月27日生)。軍用地だった時代、長峰から屏風山に向かって砲撃訓練をしていたようですが山まで届かない砲弾は、その後、畑地となる場所
に落ちたため、畑を耕していると鍬の刃が砲弾に当たることがよくあったそうです。

長嶺と呼ばれる地区。山と山に挟まれ砲撃訓練の場所だった

 太田さんは樺太白主(シラヌシ)からの引き揚げ者。父親はニシン漁で栄えた頃の漁師で、樺太では趣味で2頭の馬を所持するなど裕福な暮らしを送っていましたが、財産を残し緑郷に移住してからは180度逆転した生活となったそうです。農業以外に食べていく術がなかったのですが、漁師だったためノウハウは全くなく、さらに農作業中、鍬が足に刺さるけがを負ってしまってから他の人と同じように作業することは不可能となりました。太田さんは学生服が買えず、アメリカからの援助物資の中に小さな背広があり、それを学校に着ていったそうです。冬は前述の大砲の弾をストーブで温め、子どものおむつでくるんだものを湯たんぽ代わりに使っていたそうです。

畑で見つかった砲弾


 緑郷は現在5区まで住所がありますが、昔は9区まであり今の当麻ダムやその奥にも集落がありました。当時はダムの奥に住む住民の意見が強く、緑郷小学校はダムの向こう側に建てようという話もあったそうです。しかし当麻山の麓から縦に伸びる地区のため住民のことを配慮し今の場所に建てられたそうです。

当麻ダムの奥にも集落があり、現在でもその面影が残っている

 緑郷小学校は開校当初、中等部までありましたが、太田さんが中学生の頃は当麻中学校に統合されていました。バスで中学校まで通ったそうですが、北星地区を巡回するバスのため当麻山麓で中学生は降ろされそこから徒歩で学校に向かったそうです。当麻山の道路淵には4畳半から6畳程の穴が3カ所以上掘られ、家庭から出る糞尿が捨てられていました。汲み取りの事業者がない時代、農家は糞尿を自分の畑に撒いていましたが、畑を持たない市街地区の住民はこの穴を肥溜めとして利用していたそうです。その道路を通学路として使っていた太田さん。臭いはもちろんですが雨の日は道路に流れて
きたそうです。
 過酷な幼少期を過ごした太田さんですが、いつ外国の軍隊が攻めて来るかとおびえて過ごす、父が樺太で経験した暮らしよりは良かったのではないかと話していました。